隠密日本脱出と3枚の航空券

隠密日本脱出と3枚の航空券

  活躍中のノンフィクション作家の門田隆将さんは同じ高知県の出身で、中学、高校も同じ中・高一貫教育の私立土佐中学、土佐高校である。といっても、こちらは13年も先の卒業で、初顔合わせは高校を出て18年余りが過ぎてからだった。
  私は1983(昭和58)年7月に第5回講談社ノンフィクション賞を受賞し、その年の暮れにフリーの書き手として独立したが、その前後、「『週刊新潮』編集部の門脇護です。土佐高の後輩で」と、初めて電話をもらった。
  つきあいが始まって、3年半が過ぎた87年4月であった。
「うちの雑誌で、なんぞ連載でやるようなテーマはありませんやろか」
  懐かしい土佐弁で持ちかけられた。週刊誌の連載は、うれしいお誘いだった。
「だいぶ前から気になっちょったけんど、円高がなんで起こったかという話はどうじゃろう」
 こっちも釣られて郷土なまりで応じる。
 後から振り返ると、当時の日本経済は1980年代後半に猛威を振るった「バブル経済」の膨張過程だったわけだが、目についたのは85年秋以降、進行した円高である。85年9月20日ごろ、1ドル= 242円前後だった。それが86年1月24日に 200円を突破した。87年3月24日、 150円の壁を越えた。
  急激な円高で、産業界では、輸出産業を中心に、企業体質の強化を迫られる会社が続出した。日本人の消費生活にも大きな影響をもたらした。海外旅行が身近なものになり、輸入品が小売店の店頭にあふれるようになった。
 きっかけは85年9月22日、ニューヨークのホテル「プラザ」で開かれた先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)であった。歴史的な会合として知られる「プラザ合意」である。
  このときの円高は、市場や経済の動向などの自然発生的な原因で生じたのではなく、各国の通貨当局者が話し合って、「通貨調整」の名の下に、半ば強引にその方向に引っ張っていった結果、実現したのだ。
 なぜあのとき、「プラザ合意」による通貨調整を行う必要があったのか、そこを調べてみたいと思った。通貨当局者、つまり政治が、巨大化した通貨市場に戦いを挑んで行った通貨調整は、果たして成功を収めたのかどうかも知りたいところだった。
『週刊新潮』編集部は私の提案を聞き入れてくれて、87年7月23日号から12月24・31日合併号まで、計22回の連載でページをご用意くださった(表題は「日本迷走――円ドル攻防の一千日」)。連載中の担当編集者は、もちろん門脇さんである。
 連載記事を基に、88年12月、拙著『一〇〇〇日の譲歩――円はドルに勝ったのか』が単行本で刊行となる(新潮社刊)。さらに94年8月、『大蔵省 vs.アメリカ――仕組まれた円ドル戦争』と改題して文庫版が出た(講談社文庫刊)。

 このテーマを取り上げたのは、80年代の世界通貨戦争を題材に、通貨調整を軸にして、世界の政治と市場の攻防、各国政府の通貨外交の舞台裏を追跡し、通貨調整に至る経緯と事情と背景、ねらいや目的、日本が呼びかけに応じた理由、日本経済への影響などを再検証する必要があると考えたからだが、興味はそれだけではなかった。
  ときどき「座右の銘は」と聞かれることがある。そんなときは「鳥の目と虫の眼」と答える。それがノンフィクションの書き手の心得と肝に銘じている。
 鳥瞰図という言葉があるように、「鳥の目」は全体の動きや大きな流れを俯瞰して鷲づかみにする目である。一方、事実の細部を切り開いて断面図を観察するのに必要なのが「虫の眼」だ。上記の世界の政治と市場の攻防、通貨外交、日本経済への影響といった着眼は「鳥の目」の視点だが、それとは別に、「虫の眼」の視点で、この問題にかかわった人間の具体的な動きや心理、計算などを明らかにしたいという気持ちも強かった。
  その意味で、最も気になったのは、通貨戦争の主戦場のプラザG5に乗り込んだ日本の当事者たちの訪米までの「隠密日本脱出」の軌跡であった。
 プラザ会議の開催は、1週間前の85年9月15日にロンドンの「クラリッジホテル」で行われた5ヵ国蔵相代理会議で、「9月22日、ニューヨークでG5」が本決まりとなった。日本からは、中曽根康弘内閣の蔵相の竹下登さん(後に首相)、日本銀行総裁の澄田智さん、大蔵省(現在の財務省の前身)財務官の大場智満さんらが出席することになっている。
 ロンドンでの蔵相代理会議で、今度のG5は、抜き打ちの秘密開催ではなく、事前予告を行うことが決まった。だが、予告発表の時期は市場取引終了後でなければならない。
 事前に通貨調整プランを察知することができれば、下落が確実の米ドルの売り、他の日欧の通貨の買いの取引は、確実にもうけになる。市場取引終了前に通貨調整の情報が漏れれば、投機筋を中心に、市場で売り買いが急膨張し、苦心の通貨調整が台なしになるばかりか、世界経済が大混乱となる可能性がある。
  G5開催日の9月22日は日曜日だった。通貨市場は各国とも土曜と日曜は休みだから、金曜日の夕方の市場取引終了からクローズとなる。
  アメリカ政府の財務省は、アメリカ東部時間(夏時間)の21日の土曜日の午前11時、記者会見で「翌22日にニューヨークでG5開催」と発表した。その時刻は日本時間の22日の日曜日の午前零時である。それまでは竹下蔵相ら日本のG5出席者は、G5開催を見抜かれないように隠密行動を取る必要があった。
   訪米は、蔵相も日銀総裁も、一般客と同じ民間航空機に搭乗するしか手がなかった。日本出発は21日の午後で、この時点ではアメリカ財務省によるG5開催の事前予告は行われていない。成田空港からニューヨークまで約13時間のフライトを要した。事前予告時刻は機内にいる間に迎えることになる。ということは、ニューヨーク行きの搭乗便が成田空港を飛び立つまで、竹下さん、澄田さん、大場さん、それに同行の関係者は全員、訪米に気づかれないように、極秘行動が必要だった。

  私がひそかに強い関心を持ったのは、蔵相、日銀総裁、大蔵省財務官といった人たちが誰にも気づかれないように民間航空機に搭乗して日本の空港からニューヨークに飛び立つという芸当はどうやって実現したのかという点であった。
  実際には、マスコミなどに事前に察知されそうな危ない局面にいくつか出くわしながら、最終的には気づかれることなく、関係者全員が「隠密日本脱出」に成功した。だが、こんな場面もあった。
  私は記事の中で、竹下さんは出発の当日の21日の早朝、東京の世田谷区代沢の私邸を専用車で出発して「総成カントリー」というゴルフ場に直行した、と書いた。空港の近くの「成田東急イン」には、確かに前夜から宿泊の予約を入れていたが、そこには泊まらず、ゴルフを終えた後に立ち寄って昼食を取っただけである、と記述した。
  ホテルの予約も夫人同伴も、陽動作戦の一環だった、と判断した。竹下さんの周辺の関係者を取材して、それが事実だったと確信したからだ。
  ところが、8年以上が過ぎた94年春、竹下さんが周辺の人にこんなつぶやきを漏らしたという話を耳にした。
「プラザ合意のためにニューヨークに出発した日は、前夜から家内と2人で成田空港の近くのホテルに泊まり込み、カムフラージュのために、翌日は早朝から空港のそばのゴルフ場でプレーしてから飛行機に乗り込んだ」
  竹下さんのつぶやきが事実なのか、私の記述のほうが正しいのか、判定を下すのは困難である。
  87年、原稿執筆前の取材で、宿泊予約を入れていたといわれた「成田東急イン」に出かけて、ホテルの関係者に質問をぶつけたが、もちろん宿泊の有無だけでなく、予約の有無についても無回答だった。行動を共にした当時の秘書官やゴルフ場の関係者にも当たってみたが、どちらが真実なのか、判断がつきかねる部分が多かった。
  事実誤認が判明した場合、関係者に謝意を表して速やかに訂正するのはやぶさかではないが、真相は不明である。記事執筆から6年以上が経過していたが、訂正せずにそのままにした。
 
もう一つ、この物語を書いたとき、「3枚の航空券」というなぞにぶつかった。
 先述のとおり、竹下さんと澄田さんは85年9月21日の午後、成田空港を出発した。ところが、一行が実際にどのエアラインで出かけたか、後から調べを進めていくと、何と3通りの航空券が浮かんできたのだ。
  一つはパンアメリカン航空(パンナム。91年に破産)、二つ目は日本航空、第三はノースウエスト航空(2010年にデルタ航空に統合)である。いずれも21日の午後に成田を出てニューヨークに向かう直行便であった。
  極秘で出発するために、航空券やホテルの手配は、日銀総裁分も含めて、各国と話し合って開催を決めた大蔵省側ですべて準備することになった。 財務官室では最初、日航の切符を押さえた。
  ところが、しばらくして国際連合総会に出席する安倍晋太郎外相が同じ便に乗り込むことが判明した。同行記者を通じて、蔵相らの訪米が知れ渡るのは間違いない。大蔵省では慌ててパンナムに予約を入れ直した。
  他方、日銀では、念には念を入れ、総裁用の航空券を大蔵省任せにせず、独自に押さえてあった。それがノースウエスト便だった。最後に大蔵省から航空券が届いたのを確認した上で、ノースウエスト便をキャンセルした。その周到さには舌を巻く。だが、「大蔵省と日銀の微妙な関係」という古くて新しい問題がこんなところに影を落としているのかと驚かされた。
結局、一行はそろってパンナム便で訪米した。後から取材したとき、関係者の手帳の「予約のメモ」には、「3枚の航空券」の痕跡が残されていたのである。

(記事初出は 『IN-POCKET』〈講談社・1994年8月号〉掲載・「三枚の航空券」 2019年4月に大幅加筆・修正)