宮尾登美子さんのこと
- 2019.01.07
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『櫂』『一弦の琴』『鬼龍院花子の生涯』『天璋院篤姫』などの作品で知られた作家の宮尾登美子さん(1926年4月-2014年12月)は、私の同郷の大先輩である。
初めてお会いしたのは、今から35年余り前、1983年7月の暑い日差しの日だった。月刊『文藝春秋』記者だった37歳の私は、取材で東京都狛江市のお宅を訪問した。
『文藝春秋』が旧満洲からの引き揚げ体験の特集を組むことになり、思い出話を聞いてくるように、と編集部から指示された。何人かで手分けして大勢の体験者の方々にお会いしたが、宮尾さんは私の受け持ちとなった。
もちろん宮尾さんは、私のことは何も知らない。一記者の取材に答えるだけである。
「『お国のため』という理由だけで渡っていった満洲は、私にとって、人間として最低の生活を味わわせる以外の何物でもなかったのです」
淡々とした口ぶりながら、取材の時点で37年前となる戦中・戦後の出来事を、宮尾さんはまるで昨日のことのように、思いを込め、克明に語ってくださった。
1945年2月、宮尾さんはご長女を出産された後、敗戦直前の3月下旬に夫君の後を追って、乳飲み子のお嬢さんと二人で満洲に渡った。敗戦後に現地で暴動に遭い、無一文にされた。
丸1年、栄養失調で周りの人たちが次々と死んでいくのを目撃するという最低の難民生活を余儀なくされた。地獄をのぞくような辛酸を味わいながら、翌46年9月、生まれ故郷の高知に引き揚げてきた。
着の身着のままで帰り着いたのが、高知県吾川郡伊野町(現いの町)の国鉄(現JR)土讃線の伊野駅であった。西へ歩いて5~6分、町の中心部に赤れんが建ての地方事務所の建物があった。いったんそこに落ち着き、数日後、伊野の町を抜けて、嫁ぎ先の実家のある吾川郡弘岡上ノ村(現高知市春野町)に向かった。
私は宮尾さんの体験談を一言も聞き漏らさないように、黙って懸命にメモを取った。
「ところで、あなた、伊野とか、赤れんがの建物とか、弘岡上ノ村とか、土佐の小さな町のことが分かりますか」
話を中断して、宮尾さんは私に質問を投げかけてきた。
疑問に思うのは当然である。観光名所でもなければ、歴史や事件の舞台となった場所でもない。一地方の田舎町のごく普通の風景を、東京在住の記者が知っているはずがない。
「いえ、よく分かります」
「どうして?」
一呼吸置いて、私は照れくさそうに答える。
「実はその伊野が生まれ故郷でして……」
私は宮尾さんが伊野の町に立ち寄った2ヵ月後の1946年7月に生まれ、高校卒業まで18年間を伊野の町で過ごした。
『櫂』『春燈』『朱夏』『岩伍覚え書』の4作は宮尾さんの「自伝小説・4部作」といわれる。その一つ、1000枚に及ぶ大作『春燈』は、著者本人がモデルと思われる主人公の綾子が、結婚相手の実家を初めて訪ねる場面で終わっている。
高知市内の金持ちの娘として育った綾子は、高等女学校を出た後、家出を試みて果たせず、結局、代用教員となった。最初に赴任した四国山脈の山間の国民学校で出会った「三好先生」から結婚を申し込まれ、受諾する。婚約者に連れられて、初めてその母と祖父に会いに行くのである。
この終幕の導入部分に、伊野駅に降り立った二人が、伊野の町を通り抜けて、今や四万十川と並ぶ清流として知られる仁淀川の川沿いの田舎道を歩いて、三好先生の実家がある「桑島村」に向かう描写がある。
「駅前広場の尽きた辺りは市電の発着所になっており、左へ曲ると、綾子が辞令を受取りに行った赤煉瓦建ての地方事務所の建物が見える。
三好先生はその建物に沿って南へ曲り、人家の詰んだ町筋をゆっくりと歩いた。まもなく人家は尽き、冬野菜の畑が続く辺りになると綾子は体が内からあたたまって来、着ている紺の背広の上衣を脱いで小脇に抱えた」
1時間余り歩いた後、堤防に上がった綾子は、そこで広大な吾南平野と、大河となった仁淀川の豊かな流れを目のあたりにして歓声を上げるのだ。
宮尾さんの自筆による「年譜」(『一絃の琴』文庫版所収)を見ると、「昭和十九年 一九四四年 十八歳 二月、池川町狩山国民学校に転任。三月、退職。同月、小学校教員前田薫と結婚」とある。
だとすれば、宮尾さんは1944年の3月のある日、婚約者と2人で、伊野駅から「桑島村」ならぬ「前田先生」の実家の吾川郡弘岡上ノ村に向かったのだろう。
『春燈』の綾子は、結婚を決意することによって、目に見えないところまで広がる父岩伍の手のひらから離れ、別の世界に踏み出そうとする。ラストシーンに描かれているのは、こんな感動的な情景である。
「もうお家も近いのだな、と綾子も土橋を渡って芝におおわれた高い堤防の上に上ったとき、思わず『わあーっ』と歓声を挙げて立ち止った。堤防の左下には澄み切った水が盛上るようにゆたかに流れ、いずれも構えの立派な農家が立ち並んでおり、左手は見渡す限りの、手入れのゆき届いた河原田が拡がっている。
太陽はすでに半ば西の山の端に没し、辺りは真紅の春の夕焼に染められているなか、遠方から徐に黒い闇が下りてくる。堤の上を鍬を担いで帰るひと、馬をひいて帰るひと、くっきりと影絵のように浮び上り、馬のひづめの音が小さな谺を引いて聞えてくる。
大きくうねりながら続いている芝草の堤、こんもり茂っている鎮守の森、河原田の向うの仁淀川の、夕日の余光にきらめいている小波、すべて夢にでもあらわれてくるような清らかな田園風景であった。
綾子は、自分はほんとうは、以前からこういうところに住みたかったのだと思った。今夜家に帰れば、いよいよ正面切って父や兄との口論になることなど忘れ、結婚も三好先生をも、十分に理解しているとはいえないまま、景色に見とれながら夕闇の迫るなかを再び歩き出した」
綾子は新しい道の始まりを明確に認識しないまま、「再び歩き出す」のである。
宮尾さんは、2年半後に満洲から引き揚げてきたときも、伊野駅に降り立ち、赤れんが建ての地方事務所の建物に沿って南へ曲がった。
『春燈』で、町の風景を「人家の詰んだ町筋をゆっくりと歩いた。まもなく人家は尽き」と描写しているが、私の生家は、その「まもなく人家は尽き」というあたりの左側にあった。宮尾さんは初めて婚約者の実家を訪ねた日も、満洲から引き揚げてきたときも、わが家の前の道を歩いていったのである。
『春燈』の中で、綾子が歓喜の声を上げた仁淀川と吾南平野の自然は、宮尾さんだけでなく、私もかつて数えきれないほど目にしてきた懐かしい景色であった。
取材の際、私は「きっとわが家の前の道を」とつぶやいた。
「そうやったが……」
宮尾さんの目もとが緩み、口調が急に土佐なまりに変わった。
宮尾さんはデビュー以来、一貫して土佐の女の人生とその世界を書き続けてきた。
「土佐に四十年住み、暮しました。ほんとうに骨のずいまでの土佐人で、いまさらもう、どう変貌しようもありません」(『つむぎの糸』のあとがき)と告白した宮尾さんが描き出す女性たちは、偽りなく土佐の女の生の姿だったと思う。
18歳で東京に来てしまった私などは、もはやそのしっぽをどこかに残しているだけの「元土佐人」にすぎない。それでも周囲にいる土佐の女どもから、宮尾作品に登場する女性たちの独特のにおいと、どこかで共通する体臭をかぎ取ることがしばしばある。そのたびに、なるほどと感心してしまう。
もともとおっくうで、宮尾文学に限らず、文学作品全体について熱心な読者とは、とてもいえないが、土佐の女の深奥をもっと知りたいという土佐の男の哀れなさがもあって、宮尾作品は手にすることが多かった。
宮尾文学の真骨頂は、強い女、あるいは女の強い生き方、と多くの評者が指摘している。私も同感である。
といっても、土佐の女を、強さ一色に塗り込むような単色ではない。情念、優美、哀切など、いくつもの色調を重ね合わせた彩りが宮尾作品の味わいであることは言うまでもない。
強さの形も一様ではない。宮尾さんは土佐の女が持つ強さの形を、幾重にも重ね合わせていった。その厚みを賞味するのも宮尾文学の楽しみである。
出世作の『櫂』では、豪気だが、気が短く、暴れ者の夫に長い間、黙って従っていた内向的な女が、夫に妾腹の子が生まれたことを知ると同時に、一転して強い女に変身を遂げる。辛苦、忍従を余儀なくされながら、ぎりぎりのところまで来ると、妥協を排して自分流を鮮明に打ち出し、頑強に意志を通す。芯の強さを発揮するのである。
『陽暉楼』でも、12歳で芸の世界に身を置くことになった桃若こと房子が、最後に自分の生き方を貫く姿が描かれている。
子供のころから「玄人はだし」「器量良し」と褒めそやされた房子は、借金まみれだった魚屋の父親に売られて、高知一の料亭・陽暉楼の芸妓となった。女将からも「舞の筋がええ。跡目が取れそうな気もする」と期待され、土佐随一の芸妓に成長する。
房子が住む世界には、俗念を超越して芸を極めるために禁欲に徹するというおきてがあった。
「幾百人の男に接しようと仮にも徒惚れなどしてはならないし、まして身上りまでしての色恋沙汰は芸の精進に水を注すばかりでなく、将来人の頭に立つときの大きな傷になる」
女将から厳しく教えられてきた。
ところが、客で来た銀行頭取の息子に心を奪われる。男の子を身ごもった房子は、一人で出産を決意した。
桃若にぞっこんのなじみ客の老人が、事情を含んだ上で生まれる子供の落籍を引き受けるという情を示すが、頭取の息子への思いを貫こうとする房子は、かたくなに拒否する。子供を産んだ房子は結核にむしばまれ、愛に殉じるように死んでいくのである。
花柳界という閉ざされた世界で、幸せ薄い生涯を余儀なくされた女の受難の物語であることは間違いないが、そこにも別の形の女の強さが、隠し味のように仕込まれている。
「強い女」は、作中の人物ももちろんだが、それ以上に宮尾さん自身の生き方や姿勢に、より凝縮されて現れていた、と見た人は多かった。文体も取り上げる題材も描き出す世界も、自分流を貫き通した。土佐の女の代表格だったといっても過言ではない。
実をいうと、宮尾さんの本を読むとき、つい身構えてしまう悪い癖がある。宮尾さんのせいではない。
読書とはいえ、これから対峙するのだと自分に言い聞かせなければ、土佐の女にはとても太刀打ちできないのだ。一種の「怖いもの見たさ」でもある。
土佐の男なら誰でも、日常生活のどこかで一度や二度、「強い土佐の女」の圧倒的な存在感をかみしめたことがあるはずだ。「怖いもの」とは、押しつぶされそうなその圧迫感のことだ。
とはいえ、実際に読み始めると、「怖いもの」よりも先に、宮尾さんの筆の鮮やかさに圧倒されてしまう。
考え抜かれた筋立て、大地に根を張ったような重い文章、隅々まで血を通わせる精緻な心理表現、登場人物一人一人をあいまいにしない行き届いた人物描写、その中にさりげなく織り込まれた、私どもにはたまらなく懐かしい土佐の風物や、巧みに配置された土佐弁に魅了され、つい先へ先へと読み進んでいる自分に気づかされた。
読み終わったとき、まず感じたのは、今度も「怖いもの見たさ」の気分ははぐらかされなかったという満足感であった。
同時に、土佐の男のはしくれとして、毎度ながら同じ男どもへの複雑な気分に襲われた。土佐の男は、今もなお宮尾作品に出てくるような強い女との日常的な闘いにエネルギーを費やさざるをえない宿命を負っているのか、とつい同情してしまうのだ。
宮尾作品が全国の人々に読まれるようになって、他県の人々の土佐と土佐人を見る目も大分変わったと思う。
よく知られているように、わが土佐に対する人々の先入観は、長いこと、「男天下の地」であった。坂本龍馬や吉田茂といった歴史上の偉人のイメージが影響していたのも事実だろう。
飲んべえ天国で、男が仕事や家庭を顧みず、酒とばくちに夢中になっても許される土地柄と見られてきたという背景もあった。
「男天下」なら、共に生きる女たちは、「弱い女」が通り相場である。忍従、追従を強いられ、男たちの息遣いをうかがいながら暮らす姿を想像するに違いない。
そうではなく、土佐に生まれた男の実感としては、「男天下」は一面的で表層的な見方では、と前々から感じることが多かった。
私にもこんな体験がある。
昔、親戚の男たちが集まって先祖の法事について話し合ったときのことだ。式次第やそれぞれの家の役割分担、金銭的な負担など、大まかな方針を決め、細部は後日、もう一度集まって決めることにした。
数日後、男たちは二回目の打ち合わせ会を開いた。ところが、何と前に決定を見たはずの大まかな方針は根こそぎ覆され、別の方針に変更されてしまった。お内儀さんたちが別途にこっそり集まって、勝手に細部まで決めてしまったというのが真相である。
男の世界は上っつら、見てくれ、建て前。その裏で女どもが実権を握り、決断を下す。その代わり、きちんと責任や結果まで引っかぶる。
当然ながら、女性は生き生き、はつらつ、威風堂々。男は見た目、威勢よく振る舞わせてもらっているだけで、内実は女どもの差配どおりに、彼女たちの手のひらの上で暮らすことになる。「女天下」「女天国」というよりも、女性主導社会といったほうがいい。
ひるがえって、女性主導社会における土佐の男どもの役割は何だったのか。宮尾作品でも「強い土佐の女」の陰影として、舞台回しのように、土佐の男が控えめに登場する。
圧倒的なパワーを誇る土佐の女たちの前で、土佐の男どもに残された選択肢は、逃げ出すか、あきらめて従うか、手のひらで躍って生きていくか、上手にしりに敷かれて見せるかだ。いずれにしても、相当、屈折した生き方を余儀なくされるのである。
宮尾さんは、土佐の侠客・鬼頭良之助という実在の人物をモデルにした『鬼龍院花子の生涯』で、その父・鬼龍院政五郎を通して、屈折を余儀なくされる土佐の男の生涯を浮かび上がらせた。
悲しいかな、宮尾さんの作品に出てくるどの人物よりも鬼政に、今も愛着を覚える。南国土佐を後にしてすでに54年、私の中の「土佐の男のしっぽ」は、いつまでも消えそうにない。
(記事初出は宮尾登美子著『陽暉楼』〈文春文庫版・1998年3月10日刊〉所収「解説」 2019年1月加筆・修正)
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