岸信介さんの「健康法」
- 2019.02.11
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戦後の首相は東久邇稔彦さんから現在の安倍晋三首相まで、全部で33人だが、この中で病気が原因で政権の座を離れたのは、石橋湛山さん、池田勇人さん、大平正芳さん、小渕恵三さん、1回目の首相の安倍さんの5人だ。
石橋さんは風邪からの肺炎と脳梗塞、池田さんはがん、大平さんは心筋梗塞、小渕さんは脳梗塞、安倍さんは潰瘍性大腸炎だった。
安倍さんは1回目、2006(平成18)年9月26日に首相となり、約1年後の07年9月12日に辞意を表明して、26日に政権の座を降りた。5年の空白を経て、12年9月26日の自民党総裁選に再挑戦し、逆転勝利を収めて総裁に返り咲く。12月26日、5年3ヵ月ぶりに2回目の首相となった。
以後、長期政権を築き、18年12月で連続在任6年を記録した。とはいえ、1回目の辞任の直接の原因が体調悪化だっただけに、この6年余り、多くの国民がいつも気にかけていたのは健康状態である。
安倍さんは1回目の首相辞任のとき、辞意表明の4ヵ月後、月刊『文藝春秋』08年2月号に、「わが告白 総理辞任の真相」と題する手記を寄せた。
「このままの状態で総理大臣としての職責を果たすことができるか、正しい判断ができるか、国会に十分に対応することができるか――我が身を省みるに、誠に残念ながら、それは不可能であると認めざるを得なかった。それが辞任を決断した最大の理由」
「すべてのマスコミが私が総理の座を『投げ出した』と報じました。……しかし実際の私の胸中は『投げ出した』とは対極にあります」
こう書き残している。
「投げ出した」のではなく、ぎりぎりのところまで走り続け、もうこれ以上は無理となって、ぱたっと倒れるように辞任した、と述べているが、それが実相だったのだろうか。
1回目の辞任から5年が過ぎた12年9月12日、安倍さんは総裁選出馬表明の記者会見で、持病について、「2年前に画期的な新薬が出て克服できた。今は心身共に健康」と胸を張った。
闘病を経て復活を遂げた安倍さんを見ていて、思い浮かんだのは祖父の岸信介元首相である。
私は1977(昭和52)年4月から83年12月まで『文藝春秋』の取材記者だったが、その時代、健在だった岸さんに何回もインタビューする機会があった。皮切りは78年の春で、東京の港区西新橋の事務所を訪ねた。
83年の夏にも、当時86歳だった岸さんに会って、西新橋のオフィスで1時間余り話を聞いた。政権の座を降りて23年後である。
それ以前のインタビューは、戦前、戦後の豊富な体験に基づく懐旧談や、動いている生の政治に対する見方や意見、政界長老としての影響力など、政治の話が中心だった。ところが、編集部から「長寿の秘訣を聞いてこい」と命じられ、「健康法」について取材した。
「たばこは旧制中学のときから50年近く吸い続け、ヘビースモーカーだった。20年くらい前、風邪を引いたときに、医者から節煙を、と言われた。節煙というのは難しいから、『すぱっとやめる』と言って、その後は本当に1本も吸わなかった」
たばこ談義から始まった。続けて自身の健康法について、「台湾の張群先生の『長寿よりも不老』という言葉を胸に刻んでいる」と明かした。
岸さんは親台湾派の総帥と呼ばれた。張群氏(元総統府秘書長)は蒋介石元総統の「無二の盟友」といわれた台湾の長老政治家で、岸さんより7歳年長だった。
岸さんは張さんに「不老の要訣は」と尋ねた。張さんは「①早起き、②熟睡、③腹八分、④歩く、⑤たくさん笑う、⑥心に悩みを持たない、⑦忙しく仕事をする」の7項目を挙げたという。
岸さんは1896(明治29)年生まれで、45歳のときに東条英機内閣の商工相となり、戦後まもなく、A級戦犯容疑者として49歳から52歳まで巣鴨拘置所に収容された。早起きについては、3年余の収容生活で、すっかり5時半起きが癖になった。
熟睡は生まれつき、歩くのはゴルフと散歩で毎日4キロくらい、のんきにしていて悩みもない、仕事もこの年でいろいろ会長とか総裁をこなしている、と一つ一つ説明した。続けて、「どうしてもできないのは腹八分。けんたん家で、大食漢で」と付け加えた。
「7項目の中で健康に一番いいのは、たくさん笑うこと。『一笑一少』といって、一つ笑うと、一つ若返る」
そう言って、トレードマークのそっ歯をむき出しにして、ガハーッと大笑いした。
「もう一つ、自分で心がけている」と岸さんが口にした「不老術」が強く印象に残った。「年を取ってからは、あえて義理を欠くことにしている」と語った。つまり、人との約束や義理のつきあいなどを無理して果たそうとしないという生き方だ。
岸さんは健康法について私に話をしてくれた後も、ずっと週に3~4日、静岡県御殿場市の自宅から西新橋に通う毎日を送った。大いに笑い、よく食べ、仕事も続けた。
戦前の開戦内閣の閣僚、敗戦、戦犯容疑、首相就任、60年安保騒動による退陣と、嵐の中を通り抜けてきた。一方で、いろいろな疑惑を取りざたされたりしたが、倒れることなく生き延びた。
戦前、戦中、戦後の昭和の歴史を生き抜き、「不死鳥」と呼ばれた。19世紀の生まれの岸さんは、「3世紀を生きるんだ」と言って、「21世紀まで」という夢を追い続けたが、1987年8月、90歳で波乱の生涯を閉じた。
孫の安倍さんは、戦後では吉田茂元首相に次いで2人目、自民党で初めての「2度目の首相」として復活を遂げた。首相在任期間も、1回目と合わせて現在、戦後第3位だ。祖父の岸さんと並んで、「不死鳥」と呼ばれる政治リーダーとして歴史に名前を残しそうだ。
1回目の政権担当では、生来の線の細さが裏目に出た感があった。2回目は「失敗の教訓」を生かして長期政権を築いた。
それだけでなく、岸さんからは、政治指導者としての識見や力量、手腕、政治の要諦など、学ぶことは多いとご本人も承知しているに違いない。それ以外に、1回目の二の舞いを避けるために、健康法も手本に、と意識している可能性がある。
岸さんに見習うとすれば、まずは大いに笑うこと。もう一つは「義理と情」「仲間意識」「貸し借り」などが今も幅を利かせる古い自民党政治の海でおぼれないために、「あえて義理を欠く」という生き方も手本になる。心身の健康を維持するには、それも一つの道である。
岸さんの健康法のインタビューから35年が過ぎた。聞き手の私も今、72歳に達して、岸さんが漏らした「義理を欠く」という言葉の意味が、最近、何となく分かるような気がしてきた。
もちろん出無精、没社会、引きこもりの勧めということではない。「わがまま、身勝手、不実」といった不評は聞き流し、浮き世の義理や雑事に惑わされることなく、無理をせず、自分流の生き方を大切にする。それも「不老の要訣」かな、と思うようになった。
(記事初出は『ヘルシスト』No. 216〈ヤクルト本社広報室・2012年11月10日発行〉掲載・「岸信介の『不老の要訣』」 2019年2月加筆・修正)
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