南極大陸の空に散った日本人ツアー客の生涯
- 2023.06.13
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取材して記事を書くという仕事に就いたのは、30歳と9カ月の1977(昭和52)年4月、月刊『文藝春秋』の契約取材記者となったときだった。編集長は、『週刊文春』編集長に異動となった田中健五さん(後に文藝春秋社長・会長)と入れ替わりに、『週刊文春』編集長から月刊『文藝春秋』に転じた半藤一利さん(後に文藝春秋専務を経て作家)。以後、83年10月に書き手と一本立ちするまで6年半、『文藝春秋』でお世話になった。
月刊誌の取材記者は毎月、さまざまなテーマを取材する。政治、経済、社会事件、産業や企業経営、地域社会、歴史、人物研究、スポーツ、芸能など、対象は多岐にわたる。何を調べるかはそのとき次第である。
「記事執筆者」の一人として誌面に初めて名前が出たのは、『文藝春秋』77年11月号掲載の「岸信介研究 満州の妖怪」という表題の長編記事であった。実質的な単独執筆者の田尻育三さん(当時は毎日新聞記者だった岩見隆夫さんのペーンネーム)のわきに、取材をお手伝いした3人の記者の1人として、表向き「共同執筆」という形で、本名の「塩田満彦」の4文字が並んだ。
その後、続編の「岸信介研究・戦後篇 権力への野望」が『文藝春秋』78年7月号に掲載になる。同じように続けて田尻育三さんのわきに、表向き「共同執筆」という形で名前が出た。その前後、ほかに塩田満彦の名前で、2~3の雑誌にコラムや短篇のレポート記事を書いたことがあったが、単独執筆で初めて長編の記事を書く機会をもらったのは、取材記者となって2年9カ月が過ぎた79年12月であった。
『文藝春秋』編集部の腕利き編集者だった白石勝さん(後に『週刊文春』編集長、月刊『文藝春秋』編集長などを経て、文藝春秋社長)が、「この出来事を取材して、レポートの執筆を」と声をかけてくださった。
79年11月28日、ニュージーランドのオークランド国際空港を飛び立ったニュージーランド航空の南極遊覧ツアー機が、南極の山の斜面に激突して墜落するという事故が発生した。乗客237人と乗員20人の計257人が全員、死亡した。乗客のうち、24人が日本人だった。白石さんは、なぜこんなに多くの日本人が南極遊覧飛行に参加するのだろうか、と素朴な疑問を抱いたようだ。
それだけでなく、新聞報道を見て、日本人乗客のほとんどが60歳以上の人たちだと白石さんは気づいた。「『南極を見る』という興味を実行に移した日本人の生涯を追うと、何かが見えてくるのでは」と、一言、企画の狙いについて指示を受けた。そうやって、出来上がったのが、初の長編執筆記事の「南極遭難・一つの老人問題」(『文藝春秋』80年2月号所収。掲載記事の執筆者名は塩田満彦)である。
それから43年余、埋もれたままになっていたこの記事を本欄「ボクの寝言漫筆」に収録した。再録に当たって、年月の経過を考慮し、読者の読みやすさにも配慮して、『文藝春秋』掲載の原文のままではなく、全体の構成を見直し、かつ表現や表記についても変更・修正を施した。
目次
目玉は南極遊覧の8泊9日の旅
1979(昭和54)年11月28日、南極上空遊覧のツアー機・ニュージーランド航空901便が、現地時間の午前8時にオークランド国際空港を出発した。6時間半後、午後2時30分に消息を絶った。南極のエレバス山の山腹斜面に激突して墜落したのである。日本人乗客24人を含む機内の計257人が全員、死亡した。
「4人の息子たちがみんなやっと一人前になって、ほっとしているところだよ」
69歳となる夫人のみちと一緒に南極旅行に出掛ける関敏郎が、東京から成田空港へ向かう車中の後部座席でつぶやいた。
ハンドルを握っていたのは、教え子の山中旭である。関は早稲田大学理工学部の名誉教授だった。
山中の恩師との交わりは30年に及んでいたが、関の口から息子の話が出たのは初めてで、山中はおやっと思った。野人的な先生だが、定年退職となり、やはり心に空洞が生じているに違いないと勝手に想像した。
山中は戦後、5年が過ぎた1950(昭和25)年に早大の理工学部に入学した。クラス担任が関だった。在学中の4年間、自動車工学で指導を受けた。
卒業後、当時の三菱重工(後の三菱自動車工業)に就職する。以後も、ほかの卒業生以上に、関と公私にわたって厚い交流を続けてきた。
79年3月、関は早大を定年退職した。名誉教授になった後、71歳の関は妻のみちと一緒に、定年後の初めての海外旅行に出掛けることにした。山中はその話を耳にして、成田空港までの運転手役を買って出たのだ。
11月25日の日曜日に成田空港を出発し、香港とニュージーランドの観光、南極の上空遊覧飛行を楽しんで、12月3日に日本に帰ってくるという8泊9日の旅であった。目玉はやはり南極旅行である。
24日の土曜日、東京の中野の関宅から成田空港まで車で3時間を要した。空港に着くと、関夫妻は空港正面玄関で記念撮影した。関は次の朝に搭乗手続きを行うカウンターの場所を自ら空港内で確認する。その後にみち夫人と一緒に周辺のホテルに入った。
フロントでツアーのミーティングが行われる会場を確かめる。関は英語で話しかけ、「今から練習だよ」と笑いながら言った。
死ぬまでに一度見たい
「先生、今日の患者さんはこれでおしまいです」
看護士の言葉で、74歳の柳沢信義と67歳の夫人の柳沢浜子は、同時に掛け時計を見た。午後2時を回っている。
夫妻は共に小児科医であった。東京の浅草の自宅で小さな医院を開業している。
冬が近づくと、小児科は急に忙しくなる。風邪の子供が増えるからだ。土曜日の患者の受付は午後1時までだが、79年11月24日の土曜日も、診察が終わったのは1時間後だった。
柳沢は「11月26日から12月4日まで臨時休診」と書いた貼り紙を玄関に貼るように看護士に指示し、急いで旅行の支度を始める。夫妻は4時過ぎ、浅草から成田に向かった。
79年11月22日、日本製鋼所の本社内の廊下で、64歳の小谷守彦は、秘書役だった部下の飯島豊と立ち話をした。
「来週、休むよ」
「どちらへ行かれるのですか」
「実は南極へ。香港で飛行機を乗り換え、後はニュージーランドまでまっすぐだよ。南極では超低空で飛ぶそうだから、基地なんかがよく見えるんだ」
小谷は26年前の53年に社長の舘野万吉と出張でヨーロッパに行った。そのとき、スイスのユングフラウ山(標高4158メートル)に登山した。
年を取って、登山が体力的に無理となる。それからは山を眺めるのが楽しみとなった。
死ぬまでに一度、南極の山を見たいと思い始めた。その夢がかなう日が6日後と近づいた。
79年11月25日の日曜日の朝6時前後、人通りのない大阪の東三国の住宅街で、乗用車が停車した。西日本映画社社長の八頭司叡が夫人の英子と2人で、友人の高田政明を訪ねた。車の運転をしない高田から、「南極旅行に出掛けるので、伊丹空港まで送ってほしい」と頼まれたのだ。
高田はこの土地で7代以上続く素封家の家に生まれた。旅行好きの高田は74歳にもかかわらず、2日前に4泊5日の台湾旅行から帰ってきたばかりだった。住まいは近くなのに、接触が少なくなっていた弟の高田治朗と、久しぶりに兄弟2人の旅を楽しんだ。
車の中で八頭司が待っていると、高田政明はしま模様の背広、はやりのループタイという服装で現れた。数多い外国旅行歴を自慢するかのように、「このループタイ、以前にハワイで友達に買ってもらったんだよ」と話しかけながら、英子夫人と並んで後部座席に身を沈めた。
日曜日の早朝で、車の流れはスムーズだ。車中で航空機事故の話が出た。
「飛行機が落ちるのは、パイロットが自殺するときだけだよ」
高田は右手を振りながら笑い飛ばした。
未体験の「最後の観光地」
79年11月25日の午前10時10分、南極行きの旅行客を乗せたシンガポール行きの日本航空717便は、最初の着陸地の香港に向けて定刻に出発した。
日本交通公社(現在のJTB)の上野支店が募集した「南十字星の国・ニュージーランドと南極体験飛行の旅」に参加した日本人の客は全部で23人だった。新婚旅行のカップルも含めて、夫婦は7組14人、9人が単身旅行である。
ツアーのスケジュール表によると、こんな日程であった(時刻はすべて現地時間)。
11・25 10時10分 成田空港発
20時30分 ニュージーランド航空機に乗り換えて香港発
11・26 12時10分 オークランド着
11・27 終日 オークランド市内観光
11・28 8時 南極旅行に出発
19時05分 クライストチャーチ着
11・29 終日 クライストチャーチ市内観光(マウントクック観光コースあり)
11・30 12時20分 クライストチャーチ発
14時20分 ロトルア着
12・1 バスでロトルアからワイトモ経由でオークランドへ
12・2 12時30分 オークランド発
18時45分 香港着
12・3 香港を出発して帰国
費用は1人54万5000円の旅である。
79年当時、外国を訪ねる日本人観光客は年間で約350万人だった。海外旅行熱が高まり始めた時代で、世界中、日本人の姿を見ない土地はないといわれた。
ヨーロッパやアメリカの旅は珍しくなくなる。それ以上に、人が行かない場所、一般の人にはできない体験を求める旅行も多くなった。
旅行業者も、ヒマラヤのトレッキング(山歩き)、アマゾンの川下り、アフリカ大陸横断、シルクロード探訪、南極体験飛行など、冒険ツアーや秘境の旅といった企画を提供するようになった。中でも南極は雪と氷に閉ざされた白い大陸で、ブリザードの吹き荒れる地球のさいはてというイメージの土地だ。
79年の時点で、それまでに日本人で南極に出掛けたのは約200人にすぎなかった(うち、111人が78年に体験)。どこへでも出掛けていく日本人観光客にとっても、ほとんどの人が未体験の「最後の観光地」であった。
日本人参加者の7割超が60歳以上
南極旅行はどこが魅力的か。
飛行ツアーではないが、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)の総裁だった山田明吉は78年1月、63歳のとき、アメリカ軍の輸送機で南極を訪れ、氷上に降り立って、極点まで踏破した。2年後、そのときの感動を語った。
「ツアーではなかったので、低空飛行はしなかった。だから、南極の細かい景色は見えませんでした。だけど、初めて見た南極の遠景は、『素晴らしい』の一語に尽きるものでした。ヒマラヤの山景色などとは比べものになりません。危険を冒さずに見られる景色としては、世界に比類がない絶景ですね。見るだけで100万円の値打ちがあると思いますよ」
70年代後半、海外旅行に出掛ける日本人は珍しくない時代を迎えたが、高齢者の南極旅行はまだ一般的ではなかった。約11時間とはいえ、飛行機による上空からの遊覧飛行だから、アマゾンの奥地への探険旅行やヒマラヤ登山とは同じではないが、人一倍、好奇心が強くなければ、選択しない旅行である。
南極旅行といっても、極寒の地の南極を、暖房が利いた飛行機の座席から眺めることができる上空遊覧飛行である。高齢者でも南極見物が可能になった。好奇心が強く、旅行好きの日本人が見逃すはずがなかった。
実際に79年11月の南極飛行ツアーにも、多くの高齢者が参加した。日本人の参加者23人(ほかに添乗員1人)のうち、70代の5人を含めて、74%の17人が60歳以上だった。最高齢者は74歳である。
60歳以上の17人の内訳は、医師が5人、中小企業経営者が4人、主婦が3人(いずれも夫同伴)、現役引退者が2人、大学教授と大企業の高級サラリーマンと素封家がそれぞれ1人であった。押しなべて社会的地位が高く、経済的に恵まれた人たちである。
45年、敗戦の焦土の中で再出発した日本人が、最も強く望んだのは、平和で豊かな生活と長生きできる人生だった。それから34年が過ぎ、79年、日本は戦争のない経済大国の道を歩んだ。
社会保障も充実した。所得の向上によって、貯蓄も格段に大きくなる。一方で、老人福祉と老人医療の無料化が進んだ。多くの人々が平和と豊かさと健康を手にした。
医師や成功した中小企業家、素封家でなくても、ある程度の豊かな老後が保障される時代となった。とはいえ、高齢期を迎える人たちが物心両面で豊かさを実感できる水準に達していたかどうか。
子供から自立した親
79年11月の南極上空遊覧ツアーに参加した日本人23人のうちの5人の医師は、柳沢信義・浜子夫妻のほかに、69歳の今井亮と69歳の久子の夫妻、もう一人は65歳の単身旅行の野田茂である。
今井夫妻は共に眼科医で、亮は東京の府中で府中眼科を、夫人の久子は世田谷の自宅で今井眼科を、それぞれ開業中であった。ヨーロッパ・アルプス3大北壁の登攀に日本女性で初めて成功したことで広く知られた今井通子(旧姓。本名は高橋)の両親だ。
通子は78年の8月から10月にかけて、ヒマラヤのダウラギリ3山縦走という離れ業もやってのけた著名な登山家である。登山家兼医師だが、登山家としての活動が忙しく、医師は開店休業で、勤め先の東京女子医科大学(79年当時は助手)も休職中であった。
長女の通子が両親の今井亮・久子夫妻の思い出を述べる。
「父も母も教育とかしつけにはうるさいほうではなかった。それぞれ自由にやらせていたし、4人の子供の進路について、とやかく言ったことはありませんでした」
子供の育て方については、「ただの人にはなるな。1人で食べていけるようにしてやる」という姿勢を貫いたという。子供が一人前になるまでは働き蜂のように働いた。
子供は1男3女の4人だが、全員が両親と同じ医師の道を選び、親子6人がそろって医師という一家である。通子の次の次女・仍子は眼科医(79年当時は独協医科大学講師)で、柳沢信義・浜子夫妻の長男の柳沢正義(79年当時は自治医科大学助教授。小児科医)に嫁いでいる。
通子が登山家の道を歩むことについて、両親である亮・久子夫妻は一度も文句を言わなかった。妹の仍子が語る。
「姉が結婚して子供ができてからは、死んだら子供たちはどうするんだと心配を始めましたが、それまでは反対を唱えることはなかった。姉が岩を始めると、父は姉が帰ってくるまで、いらいらを顔に出すほど、心配するようになりました。母は肝っ玉が大きいのか、山のことを知らなかったせいなのか、一度も心配を口にしたことはありませんでした」
母親の久子が気丈だったこともあるが、家族でも個人生活の領分をわきまえて尊重し合うというのが今井家のルールだった。付くでもなし、離れるでもない、独特の味わいの親子関係である。
「老後」が近づいた親たちが、惨めな生活を送らないためには、4つの必須条件がある。第1は健康、第2は生きがいや心の張りの発見、第3は子供の独立、第4は「子離れ」、つまり子供からの自立だ。
亮・久子夫妻はこの4条件を早くから自覚し、実践してきた。だから、親子の絶妙なバランスが今井家で確立したのである。
「年を取ったね、と言うと、しかられた」
通子は振り返った。
亮・久子夫妻はいつもエネルギッシュで健康だった。「死ぬまで診療を続ける」と言い続けた。
一方で、久子は女医のための老人ホーム造りに熱心に取り組んできた。東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)の出身だが、同級生の間で老人ホーム造りの話が持ち上がった。
「女医のうち、半分は結婚していない。この人たちが年を取って動けなくなったらどうすればいいのかしら。老人には老人の生き方があるはず」
久子はこのプランに真っ先に賛成する。建設準備の先頭に立った。
「女医のための病院付き老人ホームを造る。これだけは体が動かなくなる前にどうしても実現させておきたい」
久子は説き続けていたという。
6カ国語を独学で勉強
亮と久子の次女・仍子の夫である柳沢正義の両親が、南極遊覧飛行のツアーに参加した柳沢信義と浜子である。つまり柳沢正義と仍子の夫妻は、自身の両親と配偶者の両親の4人の親を一瞬にしてすべて失うという悲劇に遭遇したのだ。
柳沢信義と浜子の夫妻の子供は2男1女だったが、今井家と同じく、柳沢家も実に親子7人が全員、医師である。長女の山崎律子は皮膚科医、次男の柳沢尚義は小児科医、その妻の信子は内科医であった。
今井家と柳沢家のような姻戚関係にある2つの家族の都合12人がそろって医者という例は、ほかにはなかなか見当たらないのではないか。
柳沢信義は浅草の医院のかたわら、学習院初等科の校医を務めてきた。それが生きがいだった。長女の律子が回顧した。
「校医の仕事は父の楽しみだったと思います。この仕事は比較的時間を取られます。でも、父は本業の診療は母任せにして、必ず出掛けていました。義務感を持って続けていたと思う。奉仕のつもりだったのです」
長男の正義が思い出を漏らした。
「戦前、義宮様の侍医を務めたことがあるとか、戦争中に皇太子殿下が日光に学童疎開されたときについていったという話を、父から聞かされたことがありました。学習院の校医になったのも、確か浩宮様が初等科に入学された年だと言っていました」
「義宮様」は後の常陸宮、「皇太子殿下」は現上皇、「浩宮様」は現天皇である。柳沢信義は皇族との接触という体験を持ち、一般の人とは違って、皇室を身近に感じる感覚があった。
皇室に対する敬愛の念は厚かった。「皇族の侍医」という経験は、柳沢のひそかな誇りだったと思われる。損得抜きで学習院初等科の校医を長く続けたのは、それが生涯の心の張りとなっていたからだろう。
夫人の浜子も、医院での診療だけでなく、ほかに心身障害児の救済に携わってきた。夫の信義とは活動の中身は違ったが、社会福祉活動は、浜子にとっても心の支えの一つだったに違いない。
南極旅行に参加した医師の中でただ1人、単身旅行の野田は、大阪の豊中の自宅で医院を営む歯科医だった。最初、福岡県の大牟田で開業したが、炭鉱の閉鎖が相次ぎ、町がさびれたため、63年に人口の多い大阪近郊に移転した。
野田は東三国に住む高田と年来のボウリング仲間だった。78年春から歯科医院の仕事で息子の手助けを得るようになったため、時間的余裕ができた。野田の趣味は読書と旅行とボウリングである。
高田といつもボウリングのスコアを競い合った。65歳の野田が220~230、74歳の高田が170という好得点をはじき出すことも珍しくなかった。
「一緒に南極旅行に参加しよう」
旅行好きの2人は意気投合した。出発の早朝に空港まで高田を送った八頭司叡の夫人は、野田や高田のボウリング仲間だった。野田の素顔を思い浮べながら口にした。
「海外に行くとき、必ず事前に訪問国の語学の本を買い込んで、ある程度、習得してから出発するほどの努力家でした」
スペイン語やイタリア語など、実に6カ国語を独学で勉強していたという。南極旅行に出掛ける前も準備に余念がなかった。野田の義弟の宮本光義が明かした。
「NHK取材班著の『未来大陸・南極』や『地球学への出発』、『地球の科学』といった本を買って読んでいました」
野田は愛用のマドロスパイプを片手に、書斎でこれから訪れる未知の地を想像した。1人で探険旅行を空想して楽しんでいたに違いない。
ディーゼルと共に歩んだ道
79年に70歳の定年退職で早大教授を終えた関は、南極旅行の1年10カ月前の78年1月、退職を控えて、「ディーゼルと共に歩んだ道」と題して最終講義を行った。
「時は1930年、日本はどん底に喘いでいた。しかし、機械工学科の学生になりえた喜びにひたる私は、早稲田に生きる喜びを一身に受けとめて、工学の殿堂の門前にはじめて立ったのである。野球、ラグビーの早慶戦に血は燃え、肉躍る歌の如く、青春の感激にひたって、早稲田に生きる実感をかみしめたのも早、50年の昔のこととなった」
冒頭の一節である(早大理工学部報「塔」31号所収の関敏郎「最終講義・ディーゼルと共に歩んだ道」)。
昭和に入って5年目の1930年、関は早大に入学した。2年生のとき、恩師の渡部寅次郎教授と出会った。
渡部は「日本のディーゼル・エンジン研究の草分け」といわれた人物である。ここから、約半世紀にわたる関の研究人生がスタートした。
34年に卒業する。一度、池貝鉄工所の自動車部(後に独立して池貝自動車)に就職した。一貫してディーゼル・エンジンの設計に携わった。
40年に日本初の乗用車用ディーゼル・エンジンを開発した。そのときの感激を、関自身が記している。
「東洋の一角で、世界の情勢を虎視眈眈と分析していた私は、外国におけるディーゼル乗用車の製造記録に刺激された。(中略)そこで、私もこの波に乗らずんばの思いで、ディーゼル乗用車をつくらせてもらった。6気筒3000回転90馬力のディーゼル機関を、今のヤナセから買ってもらった1936年型ビックに搭載して、平塚の海岸(今の湘南道路)で90km/hの快速を出した時は、技術者の冥利につきる思いであった。いま思えば、危険千万、事故の因、無鉄砲な高速試験だったと首のすくむ思いである。一般道路で90km/hの定速試験ができる位、自動車の交通がなかった証左である」(前掲「塔」31号より)
このエンジンの設計・試作は画期的だった。その後、約40年にわたって、同レベルのエンジンは世界中で出現しなかった。6気筒のディーゼル乗用車は、78年10月に日産自動車がセドリックの2800cc(91馬力)を発表するまで待たなければならなかった。
戦争中の43年、関は理工学部機械工学科の助教授として母校に戻った。そのときに学生だった後の早大教授の斎藤孟(自動車工学)は最初の関の講義を受講した。
「43年の10月8日、2時限目の授業です。鼻下にひげを蓄えた若い技術者がさっそうと教壇に登場した。直前まで実社会で活躍されていただけに、非常に威勢のいい先生というのが第一印象でした。いきなり全紙大の図面を黒板に貼り、『これが私が設計したディーゼル・エンジンである』と言って、製作に至るまでの苦労話をとうとうと始めました。これには驚いた」
学生の間で「名物教授」として評判になった。社交家で、酒が強く、話し好きだった。
酒宴はいつも関の独演会となった。酔うと、作曲・古賀政男、作詞・西條八十、歌・霧島昇のヒット曲『誰か故郷を想わざる』を熱唱した。
踊りも得意だった。宴席でよく舞台に立った。本職の芸者が踊りの手を止めるほどの芸達者ぶりだった。
50組を仲人する
関は面倒見もよく、人をうまく使う能力が高かった。講義は名調子で、学生の人気も抜群だった。前掲「塔」31号に書き記している。
「講義を受けた学生5000人、親しく手を取った卒業論文受講者500人に達し、現在私の書道の雅号『不羨』を名のって不羨会というものを結び、年1回、懇親、研究、商談、縁談のロビーとなっている。その中で、仲人をしたのが50組になんなんとしている。(中略)36年間の研究生活が、日本の工業界にこれだけの多数の人を送り得たかと、今では感無量の想である」
不羨会は毎年3月に開催され、その年の卒業生とOBが参集した。78年だけは6月に変更された。名誉教授就任の記念講演が早大内の大隈講堂で行われたため、その日に合わせたのである。
記念講演が決まったときのうれしさは尋常ではなかった。次男の関修二(79年当時はいすゞ自動車のエンジン販売本部管理課長)が回想した。
「早稲田を定年で退職する教授でも、記念講演ができない人が多いのに、と大張り切りでした。講演を終えて帰宅した後も、『感無量だ』と言って感慨にふけっていました。よほどうれしかったのでしょう」
関には定年イコール引退という頭はなかった。再出発のスタート台という認識だった。
「これまでは型にはまった生活しかできなかったが、これからはいろいろやるんだ」
周囲の人たちに宣言した。現役引退扱いされたくないという気持ちが強かったのだろう。
事実、定年前とほとんど変わらないくらい多忙な毎日が続いた。80年2月に「低燃費、省エネルギー型内燃機関に関する訪米調査団」の団長として渡米するスケジュールが決定済みだった。
関が定年後も意欲を燃やしたのは、やはりディーゼル・エンジンの改良・開発・普及である。73年の第1次石油危機の後、「省エネルギー」が各国で大きな課題となる。併せてディーゼル車への関心が急激に高まった。世界の自動車メーカーがディーゼル・エンジンの研究に力を入れ始めた。
時代の流れを見て、関は長年の研究が結実の時を迎えていると実感したのだろう。時代が自分を必要としているという自負があったに違いない。
関には、もう一つの隠れた素顔があった。周囲の人たちは「キリストの歩いた道を歩いてみたい」という関の言葉をたびたび耳にした。関はキリスト教徒だった。
59歳のときに洗礼を受けた。実際にキリスト生誕の地であるパレスチナ自治区のベツレヘムは、すでに訪問済みであった。
関は自動車工学で日本の最高権威の一人と評価されるところまで到達した。研究の道で頂上に近づいた年齢で信仰の道に入ったのだ。心のひだは伺い知れないが、もしかすると、その先に訪れる老いとその生き方、さらに人生の終幕に対する意識が芽生えたのかもしれない。
まな弟子だった早大教授の斎藤が述べる。
「定年で大学を辞める前、『行ったことがないところを次々と訪ねてみたい。いろいろな大陸を見たい』と言っていました。南極行きの話は、78年の夏ごろに聞かされた。これからは教授会に諮らずに、自由に海外へ出られる、と楽しみにしていました」
定年前、「これからやりたいこと」と言って、海外の知人との交流、書道、全大陸踏破の3つを挙げた。定年後は心の豊かさを求めることを第一に考えていたようだ。
新しく踏み出す活動の第一歩が南極旅行だった。南極行きは定年退職となって初めて実現した。関は早大の大隈講堂で行った名誉教授就任の記念講演の写真を持参し、南極旅行に出掛けた。
反撃を開始したビジネス戦士OBたち
南極旅行の60代以上の参加者で、医師に次いで多かったのが中小企業経営者である。
63歳の大沢重平は、前橋市で従業員30人を抱える農業土木会社の大幸建設の社長だった。70歳の三橋順一は、東京急行電鉄(現在の東急)本社を振り出しに、東急系の4つの会社の役員を歴任し、70年から東京通運の社長の座にあった。
大沢は59歳の夫人のまさ、三橋も64歳だった夫人の仲子と、夫婦連れで南極旅行に参加した。東邦電機製作所社長だった66歳の古川国康と、60歳の小沢酸素商店社長の小沢則夫は単身旅行である。
45年、敗戦のとき、三橋は35歳、古川は31歳、大沢は28歳、小沢は25歳であった。戦争の時代に青春を送った人たちである。戦後も働き盛りの時期、焦土と混乱の中を生き抜く運命の世代であった。
日本は「奇跡」と呼ばれた戦後復興を成し遂げ、高度成長経済の道を走り始める。日本経済は、牽引力となった重厚長大型の大企業と、それを下支えする多くの中小企業という二重構造の下で、「驚異の高成長」を実現した。69年6月10日、経済企画庁(現在の内閣府)は68年度のGNP(国民総生産)が51兆円に達し、自由世界第2位になったと宣言した。
それから10年、日本経済を下部で支えてきた中小企業の経営者たちも、サラリーマンなら定年を迎える年齢に達した。この世代のビジネス戦士たちは、国や会社や家族などのために猛烈に働いた。一方、その裏側で「無感動・無思想・無趣味」の三無世代などと陰口をたたかれた。
現役生活の出口が見える年齢に達して、そこまでの積み重ねで手にした豊かさを武器に、ようやく反撃を開始した。成功を勝ち得た中小企業家たちはロマンとスリルに挑む機会を手にしたのだ。
小沢は旅行好きだったが、ただの旅行好きとは、わけが違った。前人未到の奥地にまで足を運んだ。
79年当時、83歳で「冒険おばあさん」と異名を取った斎藤輝子は、歌人の斎藤茂吉の未亡人で、精神科医の斎藤茂太や作家の北杜夫の母だった。斎藤輝子は行く先々で何度も小沢と顔を合わせた。
「特にアフリカの奥地ではよくお会いした。77年の正月、ザイールにマウンテンゴリラを見にいったときも顔を合わせました。小沢さんも私も米飯党ですが、アフリカの辺地などに行って食べられるものがなくなったときも、小沢さんが飯ごうで炊いたご飯を持ってきてくれたことがあった。うれしかったですね」
斎藤輝子が小沢の心優しい一面を教えてくれた。
小沢は60歳を越えてからも、チベット、ベトナム、アフリカ、ガラパゴス島、イースター島、モンゴルなど、普通の人があまり足を踏み入れないところばかりを精力的に訪ね歩いた。
戦前、戦中を経て、戦後も荒波をかいくぐって生きてきた人たちは、戦争、焦土、飢餓、貧困、失業、倒産など、数々の苦境を乗り越え、代償として豊かさを手にした。それだけに、未知への挑戦にも貪欲で、意欲的である。南極旅行にも抵抗や躊躇はなかった。
二・二六事件でスクープ写真の元カメラマン
南極遊覧ツアーに参加した60歳以上の日本人17人のうち、独り暮らしの現役引退者が2人いた。その1人の佐藤久子の住まいは、名古屋市の中心街から東に12~13キロの距離の名古屋市名東区の分譲団地だった。
26年間、勤務した中部日本放送を77年に退職した。以後は、これといった仕事には就いていない。南極飛行に出掛ける29年前の50年に夫を亡くした。以後、ずっと独り暮らしである。
中部日本放送で上司だった八島博(79年当時は同社の人事部長)が印象を述べる。
「豪放磊落で、さっぱりした性格の人でした」
女性には少ないタイプである。といっても、夫とも早く死別し、会社勤めも終わって、明るく開放的な言動と背中合わせに、孤独を体感する日々だった。辞めた後も、割りと頻繁に古巣の職場に立ち寄っていたという。
佐藤は退職後、「気ままな生活」に人生の楽しみを見つけようとしたようだ。退社の翌月の78年1月、かつて在籍した中日放送の社報に一文を寄せ、心境を吐露している。
「悠悠自適とは、とてもまいりませんが、暖かい陽ざしの下で、すぎし日々を、ひもといてみたいと思います。色即是空、空即是色――、釈尊のおしえを心の糧として、限りある日々を大切に生きてゆきたいと思います。そして明鏡止水、こんな心境になりたいものです」
佐藤は山の景色を眺めるのが好きだった。
「月が大きく見える人にはロマンがある」
かつての同僚の高木慶子は、記憶に残る印象的な佐藤の言葉を口にした。
同じ旧同僚の早川きみゑは、79年暮れ、「この年の1月ごろから南極に行きたいと盛んに話していました」と思い出を口にした。
南極上空遊覧ツアー機に乗り込んだもう一人の独り暮らしは、元朝日新聞カメラマンの72歳の繁田清四郎である。
南極に出掛ける約44年前の1936年2月26日、29歳のときに二・二六事件が起こった。陸軍皇道派の青年将校が指導する反乱軍による有名なクーデターである。
首相官邸など、永田町一帯を占拠し、内大臣の斎藤実(元海軍大臣)、蔵相の高橋是清(元首相)、教育総監の渡辺錠太郎を射殺した。反乱軍は3日後に鎮圧されたが、当初、暗殺されたと信じられていた岡田啓介首相の生存が、事件発生の3日後に確認された。
反乱軍の青年将校らが首相官邸に侵入したとき、岡田は一時、女中部屋に潜んで難を逃れた。後にひそかに宮中に移る。3月1日の早朝、自動車で皇居から官邸に戻った。
その姿をキャッチしてスクープ写真をものにしたのが繁田である。張り込みを続けていて岡田を発見したのだ。
繁田はカメラマンとして一躍、有名になった。79年当時に朝日新聞の写真製版部主任だった菅谷哲二が証言した。
「あのときは降版協定がなく、特ダネ合戦は熾烈を極めていた時代でした。繁田さんは直感で岡田首相は生きていると思い、3日間、粘りに粘ってあの写真を撮ったのです」
菅谷が現役時代の繁田を評した。
「根っからの新聞人。昔からの新聞人気質に徹した人でした。仕事には厳しかったですね。写真製版部に移ってからですが、毎朝、出社すると、必ずすぐに新聞を出して、写真の具合を調べる。気に入らないと、前夜からの泊まりの人をたたき起こして、この写真が悪いと指摘していました」
菅谷が続ける。
「写真部にいて、カメラマンの現場を経験しているだけに、目は鋭かったですね。スタミナの塊のような人で、仕事熱心でした。定年後は2年間くらい、朝日小学生新聞に籍を置いて、カメラマンをやっていましたが、その後はどこにも勤めていなかったと思う。辞めてからも、社の床屋に来た帰りに、必ず私たちのところに寄って、よもやま話をしていきました」
写真製版部の田谷宣夫も、繁田の教育を受けた一人であった。
「52~53年ごろ、ボーナスが出た日の夜、3人の部下を連れて新橋のダンスホール『フロリダ』に繰り出し、ボーナスを一晩で全部使ったことがありました。社の旅行会などで、酔うと、よく裸踊りをやって見せてくれた。こよりを作って鉢巻きにする。みんなにカメラを片付けさせ、お盆を片手に、いよいよ始めるわけです。一度、大作家の吉川英治の前でこれをやったことがありました。吉川が『朝日にはすごい豪傑がいる』と言って、うなったそうです」
吉川は大衆小説の第一人者で、『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』などの著作で知られた。文化勲章を受章した小説家である。
医療施設完備の有料老人ホーム
繁田は62年に55歳で朝日新聞を定年退職となった。自宅は東京の練馬区高野台にあった。約100坪の土地付きの持ち家で、妻と2人暮らしだった。
72年に妻を亡くした。2年くらいして、長男夫婦が転居してきて同居することになった。
妻との死別から7年が過ぎた79年、72歳で独り暮らしを決意する。静岡県伊東市にあった有料老人ホームの「伊豆高原ゆうゆうの里」への入居を決めた。
「おまえはおれと別に暮らしなさい」
長男に告げた。自分で家を売却して単身で引っ越した。
79年当時、「ゆうゆうの里」周辺はこんな風景だった。
伊豆急行の伊豆高原駅で下車する。「高原口」の看板が掛かった出口を出て右に折れ、すぐ先の伊豆急線の踏切を渡り、緩やかな坂道を上っていく。
両側に保養所や別荘が立ち並び、リゾートらしい景色が広がる。林へと続く坂道をさらに進むと、2階建ての低層マンション風の白い建物群が見え始めた。駅から12~13分の距離だ。
2万坪の広大な森の中に立つ「ゆうゆうの里」は、相模湾を左手に見降ろす丘の上にあった。木々の間から小鳥のさえずりが聞こえ、崖下の城ヶ崎海岸からは、穏やかな波音が伝わってくる。
建設・運営を担っていたのは、73年12月に厚生大臣の認可を受けて誕生した財団法人日本福祉財団(郷司浩平理事長)だ。わが国の実情にかなった老人福祉を実現させるために事業を行う団体、という触れ込みで発足した組織であった。
手始めの事業が「ゆうゆうの里」で、静岡県浜松市の第1号に次いで、79年5月に伊豆高原がオープンした。ほかの老人マンションのような分譲形式ではなかった。不動産を取得するのではなく、終身利用権を得て死ぬまで生活できるという仕組みである。
約1000万円から2000万円を払い込んで終身利用権を手にする。入居金の払い込みは一括払いと分割払いがあった。
医療、健康管理の施設が完備していて、食事、家事、余暇のサービスも行き届いている。快適な老後生活を送るのに必要なものがすべて整っているのが売りであった。
室数は全部で280室、部屋の広さは約31平方メートルから約53平方メートルまで、4ランクあった。間取りは1DK、1LDK、2LDKの3種類である。
建物は14棟で、中央に入居者のサークル活動や集会を行うためのコミュニティセンターがあった。玄関ホールの左手の広い洋室では木彫りの人形造りの会、正面の床の間付きの和室では囲碁の会などが定期的に開催された。
「ここへ来てやっと落ち着いた」
繁田は老人ホーム生活を始めたが、身寄りのない高齢者というわけではなかった。長男夫婦のほかに、他家に嫁いだ2人の娘もいた。
繁田はなぜ独り暮らしを選択したのか。同じ「ゆうゆうの里」の住人で、79年11月に82歳だった神保久平は、繁田と晩酌をよく酌み交わしたという。神保が明かした。
「私はここに入る前から知り合いだったんです。私が来たのは繁田さんの2カ月後です。先に入居した繁田さんから、『快適で素晴らしいところだから、早く引っ越していらっしゃい』というはがきを、前の住所あてに3回ももらった。繁田さんから『広告を見てここの存在を知った』と聞きました」
繁田が「ゆうゆうの里」に入居した理由を、神保が言い添えた。
「家庭内のいざこざが嫌になって移り住んだのではありません。ものにこだわらない人でしたから、1人でのんびり暮らしたいと考え、ここを選んだのでしょう。繁田さんは『ここへ来るまでは心から笑ったことがなかった。独り暮らしは寂しいけど、ここへ来てやっと落ち着いた』と話していました」
67歳だった村山シヅイも、「ゆうゆうの里」で同じ写真の会のメンバーだった。村山が思い出を語った。
「繁田さんは写真のクラブ『写友会』のリーダーでした。みんなに写真の撮り方を教えてくれました。それだけでなく、毎週水曜の夜にサロンで開かれるレコード・コンサートの会も主宰していた。レコードをたくさん持っている人から、繁田さんが借り集めてきた。ほかにも民謡愛好会でも中心メンバーでした」
いつもカメラをぶら下げて、みんなの写真を撮っていたという。村山が続ける。
「『ゆうゆうの里』の行事はすべてカメラに収めていました。敬老の日に繁田さんが主宰して写真展を開きましたが、自分の行きつけの写真屋に掛け合い、3位までの入選者に出す賞品を寄付させたのです。これからも死ぬまで撮り続けるんだと言っていました」
繁田は村山にも「ゆうゆうの里」への入居を決めた理由を説明した。
「女房を亡くした後、自由に生きていきたいと思って、あちこちの老人ホームを見て回ったけど、のびのびしていて明るいから、ここが一番いいと感じた」
村山と顔を合わせると、「余生を楽しく送りましょう」と話しかけ、どう生きれば楽しい余生を送ることができるか、よく話し合った。
入居から4カ月余が過ぎた敬老の日、繁田は写真展に特別出展した。仲間が碁に興じている姿を撮影した写真で、「熱中」というタイトルをつけた。
老木も 青葉に蔽はれ 若返り
そよぎ渡りぬ 夏の高原 繁田清四郎
わきに自作の歌を添えた。「ゆうゆうの里」で老後の生きがいを見出し、気持ちの上では若さを取り戻したという感慨を歌に託したのだろう。
繁田は敬老の日の2週間前の9月1日、朝日時代の後輩の菅谷に手紙を書いた。
「ようやく秋の気配がただよって来ました。御無沙汰していますが元気ですか。築地を控えて忙しい毎日でせう。どうか新技術を充分生かしてきれいな早い新聞を作って下さい。(中略)さて同封の切抜きは静岡版ですが、写真が余りに不鮮明なので参考までに御送りします。この程度のものが当地へ来てから五回位お目にかゝっています。静岡新聞など地方紙はオフセット印刷か、なかなかきれいな印刷をしています。一読者からとして聞き流して下さい。御健闘を御祈りします」
文中の「築地を控えて」というのは、東京の有楽町にあった朝日新聞社の新社屋が築地にできることを指している。
徒労が美学になるとき
79年、繁田に「ニュージーランドと南極体験飛行の旅」というツアーの話が舞い込んだ。
一流プロカメラマンだったといっても、17年以上も昔のことだ。写真印刷の出来について手紙で苦言を呈しても、退職した先輩のお節介、年寄りの冷や水と聞き流され、相手にされないのでは、と思わないわけはなかった。
他方、老人ホームで腕を発揮し、みんなの写真を撮って喜ばれても、プロのカメラマンとしての達成感が得られるものではない。繁田にその自覚があったのは間違いない。
再び自分の写真が新聞紙面を飾ることはないにしても、どこかでもう一度、腕を試してみたいという願望と意欲は、薄れるどころか、逆に年齢を重ねるごとに胸の中で膨らみ続けていたと思われる。他人の評価もなく、徒労に終わっても、それはそれで構わないと踏ん切りをつけていたかもしれない。
そんなとき、絶好の機会に巡り合う。南極行きである。
「南極行きのいいコースがある。行ってみたら」
友人が提案してくれた。これを聞いて、忘れかけていたプロ魂に火がついたのだ。
繁田は旅行説明会をのぞいた。上映された南極の紹介映画にくぎづけとなる。自分が探し求めていたのはこれだと思った。
『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』などの作品を書き残したアメリカのノーベル賞作家のアーネスト・ヘミングウェイは、晩年の海洋小説『老人と海』で、巨大なカジキマグロと闘い、最後に釣り上げた老漁夫の死闘を描いている。
「『けれど、人間は負けるように造られていないんだ』とかれは声に出していった、『そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ』(中略)もう魚のほうを見る気にはなれない。血がすっかり流れ出してしまって鏡の裏のように銀色になっているが、縞目はまだはっきり見える。(中略)漁師たちが小舟のまわりに集まって、その横にくくりつけられた骸骨をながめている。ひとりがズボンをまくりあげて水のなかにはいっていき、その残骸の長さを綱ではかった。(中略)老人はライオンの夢を見ていた」(福田恆存訳・新潮文庫)
ヘミングウェイは主人公であるキューバの老漁夫のサンチャゴを通して、徒労が美学になりうることを教えた。
サンチャゴが繁田だとすれば、巨魚は南極であった。
「僕は空から南極を撮ってみたい。どんなことがあっても南極に行くつもりだ」
「ゆうゆうの里」の仲間たちは繁田の強い決意を耳にした。仲間に告げるだけでなく、繁田は気持ちを鼓舞するために自分に言い聞かせていたのではなかったか。
機内で最後のシャンパン
79年11月28日、午前8時少し前、ニュージーランドのオークランド国際空港で、ニュージーランド航空901便の機内への案内が始まった。
飛行機は74年製造のマグダネルダグラスDC10―30型旅客機である。南極飛行という特殊なフライトのため、手荷物は1人1個と厳しく制限された。
237人のツアー客の目が輝いている。未知の世界との出合いへの期待が高まっていたからだ。
8時、オークランド空港を飛び立った。すぐに全員にペンギンのマークがついた南極飛行用のメニューが配られた。30分後、朝食が出る。パン、オムレツ、コーヒー、ジュースというお決まりのメニューのほかに、南極飛行を祝って、特別にシャンパンが振る舞われた。
ニュージーランドの北島から南島の上空を横切り、南極大陸を目指して一直線に洋上を飛ぶ。機内で南極紹介のドキュメンタリー映画が始まった。
離陸から約3時間、南極大陸のビクトリア・ランドと白瀬海岸に抱かれたロス海に近づいた。右手前方に山なみが見え始めた。
白銀の世界の中で、山肌の陰影が青白く光っている。急に機内で会話や感嘆の声が多くなる。いよいよ南極だ。
立ち上がって窓側に身を乗り出す人が多くなってきた。窓側と通路側の乗客の交代を促すアナウンスが繰り返し流れる。カメラのシャッター音が間断なく続いた。
洋上に流氷が広がり始める。氷の白と海の紺碧のコントラストが鮮やかだ。
右手に褐色の地肌をあらわにしたドライバレーが視野に入り始めた。ロス海に浮かぶロス島の活火山であるエレバス山(標高3794メートル)の噴煙のたなびきが見えてきた。地球上の最南端の活火山である。
パイロットはニュージーランドからまっすぐ南下して南極に近づいたとき、南極大陸とロス島に挟まれたマクマード湾の上空を通過するつもりだったが、実際には約45キロ、東側のコースを南下したと見られる。高度がぐんぐん下がり始めた。
エレバスの山肌が乗客の眼前に大きく広がる。ツアー機は出発から6時間半後の午後2時30分(日本時間の午前10時30分)、「アメリカのマクマード基地の北方370キロの地点を飛行中」の連絡を最後に、通信を絶った。
ツアー機はエレバス山の山腹斜面に激突した。気象条件が悪く、ロス島を視認できず、山に衝突したと見られた。乗客と乗員の257人のうち、生存者は1人もいなかった。
(文中敬称略)
主な参考資料
アーネスト・ヘミングウェイ・福田恆存訳『老人と海』新潮文庫
今井通子『私のヒマラヤ』朝日新聞社
斎藤輝子・北杜夫『この母にして』文藝春秋
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