「満州の妖怪」取材の思い出

「満州の妖怪」取材の思い出

  取材の現場で政治の観察を始めたのは1977(昭和52)年4月、月刊誌『文藝春秋』の契約記者となったときからで、30歳だった。
 2ヵ月が過ぎた6月半ば、編集長の半藤一利さん(後に文藝春秋専務を経て現在、作家)と編集部の中井勝さん(後に『文藝春秋』編集長。現在、作家)から、「岸信介元首相の人物研究をやる。取材チームに」と指示された。時の首相は「岸の直系」といわれた福田赳夫さんで、政権を担って半年が過ぎたころである。
 岸さんは57年2月から60年7月まで首相の座にあった。退陣から17年が過ぎ、福田首相の登場で、「政権の黒幕」と評判になる。久しぶりに人々の注目を集め始めたのだ。
「この人物には一つだけ解明されずに残っているなぞがある。満州時代の3年間だ。『政治家・岸』の原点がここに隠されているのではないか。『満州の岸』を追えば、知られざる素顔、岸政治の原型を掘り当てることができるとにらんでいる」
 中井さんから企画のねらいについて説明を受けた。
  満州(正式には「満洲」)は現在の中国の東北部だ。戦前、日本が満州国という偽装国家を作って32年から45年まで植民地支配した。
 記事の執筆者は毎日新聞政治部次長だった岩見隆夫さん(後に政治評論家)で、毎日新聞政治部の岸井成格さん(後に主筆)、大須賀瑞夫さん(後に編集委員)とともに、私は取材チームに参加した。
「辣腕官僚」「A級戦犯容疑者」「不死鳥」「安保宰相」「超保守・タカ派」「改憲派のボス」「黒幕」「妖怪」「巨悪」等々、何種類もの顔を合わせ持つたぐいまれな「複層政治人間」の岸さんの人物研究である。アプローチの方法はいくつも考えられた。『文藝春秋』編集部と岩見さんは多くの選択肢の中から「満州」というキーワードを拾い上げた。
 岸さんは戦前、商工省(現在の経済産業省の前身)の次官の後、41年に東条英機内閣の商工大臣となったが、満州に派遣されたのは商工次官になる前の36年から39年までである。植民地経営で縦横に腕を振るい、偽装国家を舞台に、国家経営の実験と予行演習を行ったのだ。
  岸さんの行動と思想の原点、岸政治の原型を探るには、これ以上の題材はほかには見当たらない。40年以上が過ぎた今でも、問題提起の鮮やかさに感服する。「満州」に最初に着目したのは『文藝春秋』編集部だったのか、それとも執筆者の岩見さんだったのか、うかつにも聞きそびれたが、私は岩見さんの発案だったと見ている。
  そこから取材がスタートし、3ヵ月後に岩見さんの手によってレポートがまとまった。『文藝春秋』77年11月号に「岸信介研究 満州の妖怪」というタイトルで発表され、話題を呼んだ。反響が大きかったため、すぐに続編を、という話になった。記事は「岸信介研究・戦後篇 権力への野望」という題で、同じ『文藝春秋』の78年7月号に掲載された。

  事前の取材期間も含めて都合10ヵ月に及んだこの岸信介研究は、私には生涯忘れることができない仕事である。取材し、執筆し、発信し、発言するというその後の生き方の出発点となった。
  岩見さんという「師」と知り合ったことも大きな出来事である。取材と原稿執筆のイロハを指導していただいた。
  この仕事で、取材チームの一人として、2日にわたる計4時間の岸さん自身のインタビューを始め、 100人近い関係者の回顧談や証言の聴取、資料収集などを行った。初めて取材の面白さと奥の深さを知ったのもその後の糧となった。
「満州の岸」を知るためには、在満3年間の岸さんの生の姿に触れた人たちを探し出す作業から始めなければならない。といっても、戦争、敗戦、「満州国」消滅、引き揚げという大激動を挟んで、取材した77~78年の時点から見て、40年も昔の話である。
  現在のようにインターネット検索で何でも調べられる世の中など、予想もしない時代だ。名前の割り出しと所在の確認から始めたが、予想以上に骨の折れる作業だった。
  八方、手を尽くして調べ、元満州国政府の総務庁次長の古海忠之さんや、元満州国政府機関紙『斯民』の記者だった福家俊一さん、元満州国政府の弘報処長の武藤富男さんなど、30人以上の満州関係者の生き証人の声を拾うことができた。
  その中で、鮮やかに今も記憶に残っている話がある。
「南満州鉄道の最後の総裁だった山崎元幹という人物が71年1月に死去した。ニュースが伝わると、つきあいが途絶えていたような人も含めて、旧満州関係者がどこからともなく葬儀に集まってきた。故人の死を悼んでという人ばかりではなかった。実は山崎元総裁は満鉄時代の出来事を克明に日記に書き残していた。日記があることは、旧満州関係者の間では昔から有名だった。集まった関係者は死後、それが世間に公表されるのを恐れたのだ。埋葬の際、日記の束を遺体と一緒に埋めてしまったんだよ」
 戦前、報知新聞新京支局長だった小坂正則さんがこんな秘話を明かしてくれた。
 小坂証言の中身が事実かどうかは定かでない。だが、この驚くべき話は、戦前、かいらい国家を舞台に展開された「秘史」の中には、戦後しか知らない日本人には想像できない壮絶なドラマが無数に隠されていたことをうかがわせる。戦後30年近くが過ぎても、「満州の歴史」は終わっていなかったのである。

  もう一人、元衆議院議員の福家さんとの出会いとその後の交流も思い出深い。
   香川県高松市の出身で、戦前の42年から戦後の86年まで旧東京1区と旧香川1区で15回、衆議院総選挙を戦い、当落を繰り返して都合6勝9敗。大臣未経験の政治家人生だった。
 昭和の初め、大阪の旧制府立生野中を卒業して上京し、20歳前後で元陸軍憲兵大尉の甘粕正彦と知り合った。甘粕は1923年に社会運動家の大杉栄とその妻の伊藤野枝を殺害したといわれた人物だ。軍法会議で懲役10年の判決を受けたが、3年後に仮出獄が認められ、フランスに渡った後、満州に潜入した。
 甘粕は満州で岸さんや古海さんらと深い交流を持った。上海の国策新聞『大陸新報』を手に入れ、同じく満州に渡って『斯民』の記者だった若い福家さんを、自分の代わりに『大陸新報』の社長に送り込んだ。
 福家さんは敗戦前、30歳で日本に戻り、42年に衆議院議員に初当選する。戦後は公職追放解除後、58年の総選挙で当選して返り咲いた。
  自民党で岸派、藤山派(トップは藤山愛一郎元外相)、福田派に所属した。87年4月に75歳で死去したが、生前は「政界の寝業師」と称された。「悪党」のイメージも強かったが、「陽気な策士」「艶福家の怪物」という一面もあり、人情味あふれた楽しい政治家だった。
  戦後の保守政界の表裏に詳しかった。口にする話は虚実が織り交ざっている感もあったが、それも承知の上で、77年の初取材から死去まで約10年、何十回も取材した。
  80年前後、自民党長期政権の下で、「三角大福」と呼ばれた三木武夫元首相、田中角栄元首相、福田赳夫元首相、当時の大平正芳首相が血みどろの派閥抗争を繰り広げていたときだ。福田派の別動隊として小派閥を率いていた中川一郎元農水相が「大角」連合を粉砕するため、政界の舞台裏で、しばしば大きな仕掛けを準備した。そのにおいをかぎつけた私は、福田陣営の内部にいて事情に詳しかった福家さんを訪ね、事情を聞き出そうとした。
   一対一で話を聞く。途中で、福家さんは「今からおれが中川に電話をするから、一緒に受話器に耳をつけて話を聞いてろ」と言い出した。
   盗み聞きはよくないと思ったが、政治家同士の生のやり取りを聞くのは、またとないチャンスである。福家さんに寄り添い、息を詰めて受話器の会話に耳を凝らした。
  福家さんは中川さんに、盛んに決起を促す。決起の具体的な行動プランは、電話での会話では出なかった。二人の間で、すでに確認済みだったのだろう。中川さんは慎重姿勢を崩さない。
「うん、分かっています。よく考えます」
   中川さんはこんな言葉を繰り返し口にする。電話は10分前後で終わった。政治家の密談に直接、触れたのは初めてで、少し興奮した。
   だが、疑いも残った。その後の政治動向を注意深く観察したが、この場面では結局、「中川決起」の動きはなかった。もしかすると、あれは福家さん流の芝居で、中川さんとの電話密談を取材記者に聞かせるのが目的だったのでは、という感じもした。福家さんはときどき平気で「くさい演出」を企てるくせがあったからだ。
  本物の仕掛けも含め、福家さんは次々と寝業と策を繰り出した。失敗に終わることが多かったが、そのときは「しゃーない」と笑い飛ばして、すぐに次の一手を思い描く。評判どおりの「陽気な策士」であった。
  深層の政局動向や舞台裏の仕掛けなどの政治の生情報も興味深かったが、それだけでなく、政治家の思考方法や着眼点、行動様式などに関する「福家流解説」も強く記憶に残っている。
 見えにくい政治の実相と本質を知るには、主役を演じる人たちが重要な局面で交わす秘密の会話を探ることが大きな手がかりとなる。だが、取材で密談そのものに立ち合えるような幸運に遭遇するのは皆無に近い。当然ながら密談後に、当事者や重要な関係者から事情を聞き出す作業となる。
  密談後の時間の経過や、取材対象者の記憶の確かさにもよるが、相手が口を開く気になった場合、密談の全貌、全容の聞き取りは無理でも、一部、一端を知るのは不可能ではない。どうしても秘密にしておかなければならない部分を除き、密談の目的やねらい、メンバー、日時、場所、会話の背景や経緯などの情報はある程度、聴取することができる。
  こちらは執筆の段階で、密談の場面をリアルに描きたいという下心がある。もっと細部を知りたいと思って、参加した人たちの服装や話しぶり、会食のメニュー、密談場所の様子、そのときの天候などについて質問する。だが、多くの場合、政治家やその関係者はそんな些細な点はどうでもいいと思っているのか、状況や情景などについては記憶があいまいで、詳しい証言はほとんど期待できない。
   ところが、交わした会話の中身の話になると、なぜこんなに鮮明に覚えているのだろう、とびっくりすることが少なくない。政治家の密談取材の場合、実は相当の年月が経過した後のインタビューでも、密談の参加者が「あのときは、自分がこう言ったら、相手はこう答え、その点について、次にこんな話をしたら、向こうはそれに応じて、こんな反応を示し、胸中をこう語った」という具合に、一問一答の会話の詳細を、昨日の出来事のように詳述する場面に出くわして、こちらが目を丸くすることがある。
「それは理由があるんだ」と福家さんが内幕を教えてくれた。
「政局や自分の将来に関係する重要な密談は、大体がのるか反るかの運命を懸けた勝負どころ。場合によっては政治家として生死を左右する決戦で、大概はやり直しが利かない一発勝負だ。もちろん一か八か、ぶっつけ本番で密談に臨む度胸のいい政治家もいる。だけど、大物政治家は大体、重要な密談の場合、事前に周到に準備する。相手とのやり取りを予想して、一問一答の想定問答集を頭に描き、『相手がこう言ってきたら、自分はこう答え、反論はこういうふうに展開しよう。応じるときはこんな言い方を』というふうに頭の中で予行演習をやる。だから、実際の会話を詳細に記憶しているんだよ」

  今から振り返ると、私が「満州の妖怪」取材に携わった時期、孫の安倍晋三現首相は22~23歳で、成蹊大学法学部政治学科を卒業してアメリカ留学に出かけたころであった。帰国後、24歳で神戸製鋼所に入社し、3年後に父親の安倍晋太郎さん(後に外相、自民党幹事長)の秘書に転じた。
  私の「満州の妖怪」取材から29年後の2006年9月に1回目の首相となる。退陣後、12年に政権再奪取に成功した。2回目の首相は現在、約6年4ヵ月の長期在任を誇っているが、もちろん祖父の岸さんを取材した当時は想像もしなかった展開である。
 安倍首相の在任日数は、第1次内閣も含めた通算で現在、戦後2位、史上4位の記録を更新中だ。このまま首相を続ければ、今年8月に岸さんの実弟の佐藤栄作元首相を抜いて戦後1位に躍り出る。
「岸さんは首相在任3年4ヵ月、弟の佐藤さんは7年8ヵ月でした。その点をどう思っていますか」
  78~79年に岸さんをインタビューしたとき、やや意地悪な質問をした。岸さんは言下に答えた。
「総理は長くやればいいというものではない。何をやったかが一番、重要だ」
   そのとおりだと思う。安倍首相は今、祖父のこの言葉をどう受け止めているのだろうか。

 (記事初出は岩見隆夫著『岸信介 昭和の革命家』〈学陽書房人物文庫版・1999年4月20日刊〉所収『解説』 2019年4月に大幅加筆・修正)