鎌田慧さんに教わったこと

鎌田慧さんに教わったこと

  かつて新潟県に塚田十一郎さんという政治家がいた。
  私は40年以上、政治の世界をウォッチしてきて、最高権力に到達する人、闘いに負けて去っていく人、浮沈を繰り返して生き延びる人、あるいは疑惑が露見して拘置所の塀の内側に落ちる人など、数多く見てきたが、塚田さんはこれらの人々とは違った意味で波乱万丈の生涯を送った政治家である。
  今から22年前の1997年5月に93歳で長逝したが、塚田さんの名前に初めて出会ったのは、亡くなる15年前の82年、私がノンフィクション作家として一本立ちする前、月刊『文藝春秋』の記者の時代だった。「金で問題を起こした政治家」と報じられ、話題になったのだ。
「政治家と金」といえば、普通は誰もが地位と権力を使って巨額の金を集め、疑惑の主人公となる政治家を想像する。ところが、塚田さんの場合は様子が違った。
  資産づくり、蓄財という話ではない。20億円を超える借財を背負い、借金地獄に陥ったのだ。
  塚田さんは1904(明治37)年に現在の上越市で生まれ、東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業して、戦前、鹿島組(現在の鹿島建設)に勤務した後、1946(昭和21)年の戦後第1回の衆議院総選挙で初当選した。以後、約40年にわたって活躍したベテラン政治家だった。戦後まもない時代、同じ新潟県生まれという縁で、政治家となる前の田中角栄元首相と知り合い、政界入りに一役買ったこともある。
  衆議院議員として当選8回を記録し、吉田茂内閣の郵政相兼自治庁長官兼行政管理庁長官、自民党の政務調査会長を歴任する。61年12月に新潟県知事に転じ、2期目の66年3月まで在任した。知事退任後、参議院議員も務め、74年に勲一等旭日大綬章も受章する。83年7月に79歳で政界を引退した。
  昭和20年代、田中氏、渡辺良夫元厚相と並ぶ「新潟保守政界の御三家」と呼ばれた。新潟で一、二を争う大物政治家だった。
  そんな人物がなぜ借金地獄に、と『文藝春秋』編集部が興味を持った。掲載原稿の執筆をルポライターの鎌田慧さんに依頼した。
  私はそのお手伝いを、と編集部から命じられた。取材記者として数週間、塚田さんの関係者を訪ね歩き、そこまでの人生を追った。

  鎌田さんは忘れられない先輩である。駆け出し記者で修行中のころ、そばで仕事ぶりをつぶさに拝見した。取材のノーハウや仕事への取り組み方を勉強させていただき、勝手にエッセンスを盗ませてもらった。関心を寄せるテーマや題材、主張や考え方は同じではないが、私は昔からひそかに「取材の師匠」と思っている。
  今から40年前の79年7月11日、東名高速道路の日本坂トンネルで大事故が発生した。私の『文藝春秋』記者生活は77年春からで、雑誌ジャーナリズムの現場での取材経験はまだ2年数ヵ月という時代だ。鎌田さんがこの事故のルポルタージュを『文藝春秋』に書くことになり、取材スタッフの一人として鎌田チームに加わった。
  事故発生の数日後、現場に近い静岡市のホテルで初めてお目にかかった。ホテルのロビーで、私たち3人の取材記者は鎌田さんと簡単な打ち合わせを行った。いつものように取材先、質問事項、取材の分担などについて話し合った。
  月刊誌の記者は、編集部から言われて、先輩ライターが原稿を執筆する際、取材のアシスタントを務めるのが仕事だ。私は内心、将来は自分も独立した書き手に、という気持ちがあったから、取材は、私にとって、お手伝いであると同時に、訓練や修行の場でもあった。もっと正直にいえば、先輩の方々の蓄積を盗み出す絶好の機会である。
  鎌田さんのお名前は、その6年前に刊行された『自動車絶望工場』や、初期の代表作の『血痕・冤罪の軌跡』などを読んで、しっかり記憶の中にあった。当時、32歳の私は、初めて言葉を交わす鎌田さんに、打ち合わせ後の雑談で一言、「取材というのは、どうやればいいのですか」と、そっと質問した。いくつかの作品を読んで、ルポルタージュにこだわり、取材して書くという姿勢をおろそかにしない方と思ったから、この点をどうしても聞いてみたかったのだ。
「塩田さんねえ、取材って、そんなに難しいものじゃないと思うよ。自分が聞きたいことを聞けばいい。普通の人間として話ができればいいんだよ」
 ぽつりぽつりといった感じの気負わない話し方だが、本質は外さない。
「だけど、相手が言いたいことを感じ取らなければいけないから、やはり自分のことをよく見つめていないとね。相手とコミュニケーションが成立しなければ、取材にならない。僕はいつも相手とのコミュニケーションのあるものを書いていきたいと思っている」
  取材には特別の才能と技術と経験が必要で、それがまだ備わっていないから十分な取材ができないんだ、と漠然と思っていたから、「目からうろこ」であった。

  それから2年半が過ぎた82年の正月明け、もう一度、鎌田さんのアシスタントの仕事が巡ってきた。鎌田さんの著作「新潟出身保守政治家のはまった罠」(『文藝春秋』82年3月号掲載)というレポートとなって結実する取材である。
「新潟出身保守政治家」は塚田さんのことだ。輝かしい経歴の人物なのに、なぜか借金地獄に陥り、家も財産もなくしてしまった。
   こんな政治家人生はきわめてまれである。どうして破綻の道をたどったのか。この人物はどんなわなにはまったのか。その疑問を明らかにしてみようということで、取材が始まった。
  周囲の人々の声を聞いてみると、塚田さんは衆議院議員時代、評判のいい政治家で、やや地味だが、温厚で常識的、はったりがなく、地道な保守政治家という評価が定着していたという。ところが、取材を進めると、事情に詳しい人たちから、「二つの出来事が人間を変えた」という言葉を耳にした。一つは知事就任、もう一つは2人目の夫人との出会い、と多くの関係者が指摘した。
  知事としては、衆議院議員8期の実績を背景に、「中央直結の県政」「後進県からの脱却」を唱えた。産業や教育の振興などに一定の役割を果たした。新潟県の産業・生活基盤の向上に貢献した実績を認めた人は少なくなかった。
  だが、次第に権力の魔力に取りつかれていく。議員時代、権力欲や金銭欲のにおいは乏しかったのに、権力者が陥りがちな落とし穴にはまってしまう。
  知事の権力は大きい。行政の恩恵に浴したい人たちが群がってくる。選挙が気になる知事も、自分の集票・集金マシンを作り上げる。全国どこの県でも見られた構図であった。
  知事就任以後は、政治家として、しばしば「公私混同」を問題にされるようになった。政治家は一般人と違って、「公私一体」を強いられるケースに日常的にぶつかる。選挙戦には妻や子供まで駆り出される。金の動きも、どこまでが政治の金で、どこからが生活費か、区別がつかない。
  もう一つの2人目の夫人の「おときさん」という女性は、塚田さんが「地味だが、温厚で、はったりのない地道な保守政治家」から、「おごり高ぶって平気で買収もやる権力者」に変貌するきっかけを与えた人物である。とき子夫人との結婚は、前妻の他界の約半年後、知事を辞めて1年近くが過ぎた67年2月で、塚田さんは63歳での再婚だったが、二人は知事在任中から公然の仲であった。
  公私の区別がない政治家生活が続く中で、とき子夫人は参院選を目指す塚田さんの応援に奔走する。選挙資金調達のためか、夫人自身の事業欲のためかは判然としないが、大勢の人たちから多額の資金を借り、焦げつかせてしまう。借金地獄が始まった。
「政治家・塚田十一郎の転落」はとき子夫人が原因と見た人が多かったが、塚田さん自身は、生前、「政治とおときのどちらを選ぶかと聞かれたら、ためらわずおときを選ぶ」と公言してはばからなかった。かつての新潟県最大の権力者が借金地獄まで転落していった軌跡を追うには、この「おときさん」の実像に迫らなければならない。
  いつどこで知り合い、塚田さんの心をどうとらえ、どんな人間に変えていったのか。そのなぞを解明しようとすれば、当然ながら、塚田さんと出会うまでの「おときさん」自身の半生も跡づけておく必要がある。
  だが、取材を重ねても、容易に姿が見えてこなかった。過去の足跡が記されていると思われる場所を追い求めて歩き回った。

  鎌田さんのお供をして、少女時代の「おときさん」が戦争中に疎開していた新潟県北蒲原郡笹神村(現阿賀野市)に向かった。真冬の越後平野だ。一軒一軒の距離が遠く離れた農村の風景が続く。「おときさん」の記憶を持つ村人を発見するため、てくてくと2人で歩いた。
  わずかの手掛かりを頼りに、見知らぬ家のドアをたたく。だけど、収穫はゼロ。短い冬の日は傾き、あたりはだんだん薄暗くなってきた。
「当てもなくこれ以上、歩いても……。このへんで切り上げませんか」
  ひとまず引き上げて作戦を練り直したほうがいいのでは、と思って鎌田さんに声をかけた。ところが、こんな言葉が返ってきた。
「塩田さん、お疲れでしたら、先に宿に帰っていただいて結構ですよ。僕はもう少しこのへんをうろついてみますから」
  そう言われて、アシスタントの私が「はい、そうですか」と1人で先に帰るわけにはいかない。「いや、見つかるまで探しましょう」と返事して鎌田さんの背中を追った。
  その結果、ついにこの村で、かつての疎開先の女主人を見つけ出した。「おときさん」が学校を出た後に勤めていた農協の元上司など、数多くの取材対象者を発掘した。
  どこにでもいる普通の女性にすぎなかった「おときさん」は、地元最大の権力者をわがものにし、元知事の夫人という地位を使って、年来の夢と野望を実現しようとする。権力の営みと、権力者を中心に構築された政治や社会の構造が、ゆがんだ夢と野望を可能にしてきたのだ。鎌田さんはその実態を探り当てた。
   でき上がった鎌田レポート「新潟出身保守政治家のはまった罠」を読み返して、笹神村でこうした人たちに巡り合っていなければ、権力者の誕生から転落までの軌跡をここまで鮮明に浮かび上がらせるのは難しかったのでは、とつくづく思った。
  鎌田さんは記事の中で、「愛が政治家を滅ぼしたといえば月並みになるが、塚田の悲劇は、政争にまきこまれ、金脈から外れた保守政治家のケーススタディということもできよう」と書き記している。
  金権政治のわなにはまった塚田さんは、過去の栄光を台無しにしただけでなく、長年の支持者にまで不義理を重ね、政治家失格の烙印を押されて、政界から姿を消した。それからは、大きすぎる負の代償を背負ったまま、愛に生きた。最後は愛する夫人に見取られ、ひっそりとこの世を後にしたのである。

(記事初出は鎌田慧著『ルポ権力者 その素顔』〈講談社文庫版・1983年10月15日刊〉所収「解説」、「名声と借財と… 政治家塚田十一郎氏逝く」〈『新潟日報』1997年6月10日付朝刊〉 2019年3月加筆・修正)