土佐人のしっぽ

土佐人のしっぽ

 大分県の豊後高田市と岡山市の西大寺という二つの町を訪ねたことがある。
 豊後高田は町起こしで昭和30年代の商店街を昔の姿によみがえらせた。1965(昭和40)年8月に廃線となった大分交通宇佐参宮線の旧豊後高田駅(現在は高田バスセンター)の前から、新町、中央通りにかけて、市内を流れる桂川の川べりまで、約 500メートルにわたって、昭和30年代のままの町並みが続く。
 鉄道が消えた後、さびれる一方で、絶滅寸前となっていた商店街を逆手に取って、「昭和レトロの町」として売り出したら、人気となった。一時期、よそから観光客や視察者が大勢、押し寄せたという。
 岡山市の西大寺は奇祭「裸祭り」で有名な西大寺観音院の門前町だ。寺の北側に、門前から始まる五福通りという名の眠ったような商店街がある。
 昼間なのに、人影はほとんどなかった。帽子屋や古めかしい医院、ガラス入りの引き戸の扉の燃料店などがひっそりと並んでいる。
 この町は昭和30年代の東京の下町を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に登場する「夕日町」のロケ地に選ばれた。映画は2005(平成17)年に封切られて大ヒットした。そのころの風景、文化、生活、人情などをたどる「昭和30年代」がブームとなった。

 1946(昭和21)年生まれの私はその時代、四国の片隅にいた。清流で知られる仁淀川の川べりの高知県吾川郡伊野町(現いの町)で生まれ育った。
 両親は町工場の経営で、造っていたのは、土佐の和紙を原材料にする謄写原紙である。併せて謄写版や原紙に書き込むときのやすり、鉄筆などの道具類も販売した。
 1959(昭和34)年4月10日、「世紀のロマンス」と呼ばれてゴールインした皇太子(現上皇)の結婚式が挙行された。わが家はそれに合わせて初めてテレビを買った。
   白黒テレビは自宅兼工場の広間に設置された。全国に生中継された皇居での「結婚の儀」の宮中絵巻と、その後のパレードを、広間に集まった大勢の人と一緒に眺めた。
 その年、中学校に入った。高校まで6年間一貫教育の高知市内の私立学校だった。
 国鉄(現JR)土讃線の伊野駅から、ディーゼル機関車が引く小豆色の汚れた客車に揺られて通学した。春には蓮華と菜の花が咲き乱れ、秋は赤とんぼが群れをなして舞うといった田園風景を、当たり前の景色のように毎日、車窓から目にした。
   中学2年の60年、「安保騒動」で国会議事堂の周りがデモの渦となった。といっても、東京の緊迫した雰囲気はストレートには伝わってこない。
 だが、そのとき、学校で漢文を教える古武士のような老教諭が真剣な顔でつぶやいた一言は長い間、耳に残った。
「東京は今、革命前夜の状態だ。もしかすると、革命で政府が倒れ、日本は社会主義の国になるかもしれない」
 東京で展開する激動の意味を初めて知った。
 60年1月に岸信介内閣が調印した新日米安全保障条約(安保改定)は6月に国会で自然承認となり、批准が完了して成立する。大反対闘争の嵐の中で立ち往生していた岸首相は7月に退陣した。
 政治は大揺れに揺れたが、革命も社会主義も実現しなかった。映画の画面が変わるように、対決シーンは消え、成長と豊かさを追い求める経済の時代に移り変わった。
 63年、高校2年のとき、作家の司馬遼太郎の著作『竜馬がゆく』(文藝春秋刊・全5巻)の刊行が始まった。描かれているのは毎日、目にする高知の町で、同郷の先人が次々と登場する。毎巻、発売と同時に本屋に駆け込み、一気に読み切った。
 維新回天に突き進む青春群像の魂とエネルギーに魅せられたのも事実だが、それ以上に、土佐を出て江戸に学んだ坂本龍馬の視野の広がりと才能の開花に刺激を受けた。
 自分は高知にいて、一方に知らない日本がある。これから何をどう吸収し、どう生きるか、とぼんやり考え始めた年ごろに、この本に出合った。
 なぜか好奇心は旺盛だった。龍馬のように、とにかく東京に出なければと思った。
 昭和30年代の最終年の64年は高校3年だった。10月開催の東京オリンピックに合わせて、初めてカラーテレビが入った。受験勉強そっちのけで、テレビ観戦に熱中した。
 翌年の春、高校を卒業した。大学受験のときだけの特例ということで、親の許しを得て、開通から4ヵ月しかたっていなかった真新しい東海道新幹線に乗って上京した。
 そのときに目にした東京の町の強烈な印象と、鳥肌が立つような興奮は、今も鮮やかに記憶している。ビルの谷間を縫うように走る高速道路、原色の塗装を施した電車、コインを入れるだけで商品が飛び出す自動販売機など、見聞きするもの、何もかも驚きだった。
 ピザというへんちくりんな食べ物を恐る恐る口にした。一日、外出して下宿に戻ると、二つの鼻の穴が排気ガスのすすで真っ黒になることも初めて知った。
 大学受験には失敗した。1年間、東京で予備校に通いながら、浪人生活を送ることにした。
 パソコンもスマホもない時代である。それどころか、受験浪人の下宿部屋だから、テレビもない。気分転換に「週1回、1本だけ」と自分に言い聞かせて、名画座に出かけて洋画、邦画の名作映画を楽しんだ。
 一方で、勉強の合間に、政治や経済の関係の本も読んだ。一番、心に響いたのは、高校卒業の前後、表題に引かれて講読した政治学者の高坂正堯著『海洋国家日本の構想』だった。進む大学と学部も、その線上で判断し、自分で決めた。

 64年の春から東京暮らしが始まった。2004年の暮れまで、郷里の親が元気だったこともあって、大学卒業後も高知にはたびたび出かけた。
    生まれ故郷といっても、高知県の全域を知っているわけではない。未踏の地も多かったが、前々から一度、訪ねてみたいと願っていた町があった。
 高知県最西部の宿毛である。読みは「すくも」、高知市から 140キロも離れている。1997年までは鉄道もなかった。
 きっかけは依岡顯知さん(故人)という方との出会いだ。私は70年に大学を卒業し、雑誌の編集部勤務などを経て、77年4月から83年暮れまで月刊『文藝春秋』の取材記者を務めた。依岡さんとは、取材で83年3月に初めてお会いした。
 依岡さんはたった一人しかいなかった吉田茂元首相の秘書だった。何回も会って吉田の素顔や政治の舞台裏について話を聞いた。
 通算7年2ヵ月、首相を務めた吉田には、首相秘書官は何人もいたが、議員秘書は首相を辞めた後の5年余も含めて、一人もいなかった。選挙運動をしない、陳情は受けない、政治資金作りもしないと決めていたから、不要だった。
 代わりに吉田の雑事いっさいを引き受けたのが林譲治という政治家であった。林の忠臣といわれた依岡さんは林の死後、吉田の秘書に移った。
 林は吉田内閣で内閣書記官長(現在の官房長官)や副総理を務め、後に衆議院議長になった。選挙区は旧選挙区制の高知全県区で、出身地は宿毛である。
 吉田は東京の生まれだが、衆議院議員だった実父の竹内綱が同じ宿毛の出身だった。姓が違うのは、吉田家に養子に出たからだ。
 吉田と林の密接な関係は父親の代以来である。竹内と林の父の林有造はいとこ同士で、自由民権運動の盟友でもあった。
 その後、戦前の1930年に林譲治が衆議院議員となる。吉田は戦後、46年に首相となった。
  47年4月、新憲法に基づく初の総選挙が行われた。吉田は現職首相だったが、国会議員ではなかった。
 初めての選挙に高知から出た。林も同じ選挙区である。だが、吉田を当選させるために自分を捨てる。地盤の3分の2を譲り渡しただけでなく、吉田が次点で落選したときは、自分が当選を辞退して、繰り上げ当選させる、と約束した。
「昔は人口数千の村。そこから5人の大臣と10人の国会議員が出た」と依岡さんは宿毛を自慢した。
 10人の議員の中には、自由民権運動や差別撤廃運動で知られる大江卓もいる。ほかに「早稲田の父は大隈重信、母は小野」といわれた小野梓も宿毛の人だ。
 明治期に多数の政治家や思想家、民権運動家を輩出した宿毛とはどんな町なのか、興味を持った。思い立って2003年12月、空路、高知に向かった。
 列車で宿毛入りと決めて高知駅に行ったら、土砂崩れのおそれで運転見合わせだという。実際に数時間後、線路が土砂に流されて長期不通となるという運のなさ。
 出直すしかない。04年6月、やっと宿願を果たした。
 宿毛市の人口は現在、約2万1000人。江戸時代は土佐藩主の家臣の伊賀家を領主とする城下町だった。作家の大原富枝さんの著作『婉という女』の舞台にもなった。
 04年、町を訪ねると、林邸は健在だった。竹内の屋敷跡はほんの数軒先である。
 林有造の育った場所と大江邸跡は隣合わせだ。小野の育った場所も含めて、数百メートル四方の中にある。
 林有造は竹内の3歳下、大江は竹内の5歳下だ。幕末の小さな町のことだから、若いころから切磋琢磨し合う間柄だったのだろう、と想像を巡らせた。

 自由民権運動は1880年前後に展開された。60年後に戦後体制がスタートする。吉田が政権を担った。それから70年後、改めて自由と民権、民主主義が問い直される時代がやってきた。
 制度上は手にしたはずの自由や民権、民主主義が、実は本物ではなかった、と多くの人が気づいた。岐阜県知事だった梶原拓さんは、地方自治の現状を見て、「自由度がない。主権在民といいながら、国民に主権があるのかと思う。われわれの改革は『平成の自由民権運動』」と語った。官権優位、規制と統制が根を張るいびつな民主社会というのが長年の日本の実態だった。
 自由と民権について、もう一度、勉強しなければ、と思いながら宿毛を後にした。
 源流をたどる。明治維新後、日本の議会制度はどうやって生まれたのか、という疑問が生じた。周知のとおり欧米からの移入だが、思想と哲学を持ち込み、制度を作り出して定着させる努力を重ねたのは、どんな人たちで、なぜそこにエネルギーを注いだのか、調べて物語を書いてみたいと思った。
 追跡調査と資料精査に4年を要した。2008年、運よく地元の高知新聞が連載執筆のチャンスを用意してくれた。「でもくらしい事始め」という題で、09年3月2日付から4月28日付までと7月10日付から9月14日まで、日曜日を除いて、朝刊紙面に計 105回の連載記事が掲載になった。
 この連載を基に、全体の構成を見直すと同時に、大幅な加筆・修正を施して、10年10月に拙著『熱い夜明け でもくらしい事始め』が刊行された(講談社刊)。さらに19年2月、『でもくらしい事始め 議会と憲法の開拓者たち』と改題して、電子書籍を出版した(サイバースマイル刊)。
 2020年7月、東京で2度目の夏季オリンピックが開催となる。振り返ると、1回目の東京オリンピックの翌年の春、東京に出て、以後、首都圏暮らしは55年になる。
 大学を出た後は、右往左往を経て、政治の観察と解剖、レポートと評論をメシの種にして生きてきたが、根っこの関心は「デモクラシーの実現」である。龍馬、ジョン万次郎、中江兆民、馬場辰猪、植木枝盛ら、土佐の先人たちが切り開いてきた議会制民主主義と政党政治の現在と将来がいつも気にかかる。
 南国土佐を後にして半世紀余り、今となっては、しりに土佐人の尾をちょっぴり残している「元土佐人」にすぎないけれど、「自由民権」を目指した土佐人のしっぽは失ってはならない、といつも自分に言い聞かせている。

(記事初出は、「吉田茂と宿毛」〈『文藝春秋』2005年7月号所収・「巻頭随筆」〉・『昭和30年代 「奇跡」と呼ばれた時代の開拓者たち』所収「あとがき」〈平凡社新書・2007年7月10日刊〉 2019年7月加筆・修正)