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ボクの寝言漫筆

塩田潮の勝手気ままな独り言や、メディアで執筆した過去記事の加筆修正版を掲載。



2019年1月7日公開

「嵐を呼ぶ男」


「嵐を呼ぶ男」とからかわれる。石原裕次郎のような雨男でもないのに、講演の日、台風や集中豪雨、大雪、地震などによくぶつかるからだ。

 2018年12月までで計 360回を超えた時事通信社の内外情勢調査会の講師は、1993年1月の北海道の帯広市と釧路市が皮切りだが、釧路沖地震の直後の猛吹雪の日だった。95年1月の阪神・淡路大震災の日も、京都市で講演の予定があった。

 2000年9月、岡山市に向かう日の朝、東海地方の豪雨で東海道新幹線がストップし、肝を冷やした。翌01年1月、まだ北陸新幹線がないころ、大雪で富山市まで九時間の鉄道の旅を体験した。

 自然界の嵐だけでなく、「永田町の嵐」にもたびたび遭遇した。自民党の初めての野党転落のきっかけとなったのは、1993年6月の宮沢喜一内閣不信任案可決だが、長崎県の佐世保市での講演の日だった。

 98年7月の自民党総裁選の日、投票の直前に広島市で講演があり、小渕恵三、梶山静六、小泉純一郎の3氏の争いについて、講演終了の直後に判明する選挙結果を予想しなければならなかった。思い切って「梶山勝利」と述べたところ、数時間後に「小渕総裁誕生」となり、赤恥をかいた。

 2018年12月1日、政策研究フォーラム福岡県連絡会主催の講師で福岡市に出かけた。夕方からの講演で、その晩、福岡市内に宿泊することになり、ホテルを予約しようと思った。ところが、カプセルホテルと超高級ルームを除いてすべて満室で、泊まる部屋がない。仕方なく、北九州市の小倉など、周辺も当たってみたが、空室ゼロ。

 調べてみると、同じ日に福岡ドームで数万人を集める大型コンサートがあり、ファンが福岡市に殺到するのが原因と分かった。コンサートはジャニーズ事務所所属の5人組のアイドルグループ「嵐」である。

「嵐を呼ぶ男」とからかわれてきたが、とうとう本物の「嵐」まで呼んでしまったか、と思った。

 講演の日、なぜか台風、集中豪雨、大雪、地震などに頻繁にぶつかるが、中止は阪神・淡路大震災の日のだけだ。内外情勢調査会だけでなく、ほかの講演も含めて、会場に出向くことができなかったりして講演中止となったのは、この1回きりである。

 月刊『文藝春秋』記者時代以来、取材・講演の「健脚商売」は2019年で42年になるが、おおむね健康で、大過なく仕事をこなすことができた。加えて、昔からの「旅行好き」が助けとなっている。旅のスケジュール設定は、実際に実現しなくても、あれこれプランを考えるだけでいつも楽しい。

そんな趣味が幸いして、鉄路、空路、海路、陸路とも、取材や講演での旅の手配は、割りと手際がいい。取材の約束をいただいた方々や、講演の主催者に、足の便でご迷惑をかけることはきわめて少ないのが、ひそかな自慢のタネである。

 もちろん本業は物書きで、講演の講師と二足のわらじだが、本業の世界では「講演は物書きをだめにする」という声もしばしば耳にする。「しゃべるほうが楽で、中身もお手軽だから、堕落する」「1時間の講演料が1日かけて書く原稿の原稿料よりも高い。執筆意欲が低下する」「講演は言いっ放し。文章が粗っぽくなる」等々。

 確かにそのとおりだと思う。お手軽に済まさない。堕落に注意する。執筆意欲を失わない。粗っぽい文章を書かない。そこは要注意と言い聞かせてきた。

 だが、講演には隠れた効用もある。講演が文筆に役立っているという意味だ。

講演は発信と受信に時間差がない。一発勝負の緊張感や、聞き手と直接、対峙する臨場感がある。目の肥えた読者は物書きには怖い存在だが、耳の肥えた聞き手も手強い。

 そこも刺激的だが、講演を引き受けていて、実際に気づいたことがある。

 ノンフィクションの書き手として、政界や官僚機構、政策決定過程の研究、昭和史、人物論などに取り組んできた。同時代の人々の営みや事実を掘り出すのが主たる作業だから、時代や社会を正確にとらえる感覚や意識が要求される。

 だが、仕事の仕方は、どちらかといえば、日々の動きの追跡よりも、選び出したテーマに沿って、時には時間と空間を超える視点で調べを進め、事実を発掘して書くというスタイルだ。

政界や官界を扱うことが多くても、日常の出来事や実態から遠ざかることがある。一つの世界で定点観測を続ける新聞記者と比べると、現実を追い切れないという弱みがある。

 ところが、連続して講演を引き受けることによって、そのハンデを克服する機会を得た。物書きとして長期的に取り組むテーマとは別に、日々の動きや実態を捕捉する取材が必要となるからだ。講演用の取材の中で、ノンフィクションのテーマとなる骨格の大きい題材に出合ったことも少なくない。

 講演と文筆の複合的効果は予想以上に大きい。「永田町の嵐」に遭遇したときなどは、なおさら効用を実感する。講演料を頂戴しながら、こんな副産物まで手にすることができるとは、講師みょうりに尽きると思う。

「嵐を呼ぶ男」は体力勝負。だが、台風にも豪雨にも地震にも大雪にも負けず、このまま走り続けたいと今も思っている。

(記事初出は『世界週報』2005年1月25日号掲載・「嵐を呼びつつ走り続ける」 2019年1月加筆・修正)


2019年1月7日公開

「謎だらけのミステリー路線」


 東武鉄道の東上線の沿線に移り住んだのは1977年の秋だから、まる41年になる。最初、朝霞台駅から徒歩10分の賃貸マンションにいて、2年後に現在の霞ケ関に引っ越した。

 よその沿線と比べて、特に自慢のタネもない代わりに、我慢ならぬというほどの不満もない。サイタマでダサイと言われれば、確かに、という気もする。

 だが、東京郊外で、適度に田舎の景色が残っていて、池袋までの往復も、林あり畑あり川ありで、毎日、ちょっとした小旅行が味わえるというよさもある。

 そんなことよりも、東上線にはもっと別の面白さが隠されている。実はこの電車は謎だらけのミステリー路線なのだ。

 まず、西武が東口にあって東武が西口にあるという不可解な池袋駅を出発する。二つ目の駅が下板橋で、その先に中板橋、上板橋がある。

 昔からどこでも都に近いほうが上で、遠くなるにつれて中、下となる。電車だって都心に向かうのが上りなのに、なぜ逆さまなのだろう、といつも考え込んでしまう。

 それよりも、最大の謎は東上線という名前だ。東京に向かって北西から南東に走っているのだから、「南下」ではないか。東京から見れば「北上」である。

 東京と横浜、八王子の間を結ぶ線は東横線、京王線と呼ぶ。東上線で「上」の字がつく駅は、上板橋と上福岡がある。だけど、ここと東京の間を走るから、「東上線」と呼んだなんて、まさかねえ。

 埼玉県の北隣の群馬県は昔、上野(こうずけ)とか上州といった。そこまで線を伸ばすつもりで「東上」という名を付けたのに、途中の寄居駅でおしまいになってしまった、という推理も働く。果たして真相は……。

 と、まあ、暇つぶしに想像を巡らせているうちに、池袋駅から霞ケ関駅までの37分の急行電車の小旅行が終わるという仕掛けである。

 最後に一言、私の著作は全部で66作となったが、第一作は『霞が関が震えた日』という題の本だった。だが、これは、わが町・霞ケ関が震えた日の物語ではないので、念のため。

(記事初出は『東京人』1993年11月号掲載・「私の好きなこの沿線・東上線『謎だらけのミステリー路線』」 2019年1月加筆・修正)


2019年1月7日公開

「宮尾登美子さんのこと」


『櫂』『一弦の琴』『鬼龍院花子の生涯』『天璋院篤姫』などの作品で知られた作家の宮尾登美子さん(1926年4月-2014年12月)は、私の同郷の大先輩である。
 初めてお会いしたのは、今から35年余り前、1983年7月の暑い日差しの日だった。月刊『文藝春秋』記者だった37歳の私は、取材で東京都狛江市のお宅を訪問した。
『文藝春秋』が旧満洲からの引き揚げ体験の特集を組むことになり、思い出話を聞いてくるようにと編集部から指示された。何人かで手分けして大勢の体験者の方々にお会いしたが、宮尾さんは私の受け持ちとなった。
 もちろん宮尾さんは、私のことは何も知らない。一記者の取材に答えるだけである。

「『お国のため』という理由だけで渡っていった満洲は、私にとって、人間として最低の生活を味わわせる以外の何物でもなかったのです」
 淡々とした口ぶりながら、取材の時点で37年前となる戦中・戦後の出来事を、宮尾さんはまるで昨日のことのように、思いを込め、克明に語ってくださった。
 1945年2月、宮尾さんはご長女を出産された後、敗戦直前の3月下旬に夫君の後を追って、乳飲み子のお嬢さんと二人で満洲に渡った。敗戦後に現地で暴動に遭い、無一文にされた。
 まる1年、栄養失調で周りの人たちが次々と死んでいくのを目撃するという最低の難民生活を余儀なくされた。地獄をのぞくような辛酸を味わいながら、翌46年9月、生まれ故郷の高知に引き揚げてきた。
 着の身着のままで帰り着いたのが、高知県吾川郡伊野町(現いの町)の国鉄(現JR)土讃線の伊野駅であった。西へ歩いて5~6分、町の中心部に赤れんが建ての地方事務所の建物があった。いったんそこに落ち着き、数日後、伊野の町を抜けて、嫁ぎ先の実家のある吾川郡弘岡上ノ村(現高知市春野町)に向かった。

 私は宮尾さんの体験談を一言も聞き漏らさないように、黙って懸命にメモを取った。
「ところで、あなた、伊野とか、赤れんがの建物とか、弘岡上ノ村とか、土佐の小さな町のことが分かりますか」
 話を中断して、宮尾さんは私に質問を投げかけてきた。
 疑問に思うのは当然である。観光名所でもなければ、歴史や事件の舞台となった場所でもない。一地方の田舎町のごく普通の風景を、東京在住の記者が知っているはずがない。
「いえ、よく分かります」
「どうして?」
 一呼吸置いて、私は照れくさそうに答える。
「実はその伊野が生まれ故郷でして……」
 私は宮尾さんが伊野の町に立ち寄った2ヵ月後の1946年7月に生まれ、高校卒業まで18年間を伊野の町で過ごした。

『櫂』『春燈』『朱夏』『岩伍覚え書』の4作は宮尾さんの「自伝小説・4部作」といわれる。その一つ、1000枚に及ぶ大作『春燈』は、著者本人がモデルと思われる主人公の綾子が、結婚相手の実家を初めて訪ねる場面で終わっている。
 高知市内の金持ちの娘として育った綾子は、高等女学校を出た後、家出を試みて果たせず、結局、代用教員となった。最初に赴任した四国山脈の山間の国民学校で出会った「三好先生」から結婚を申し込まれ、受諾する。婚約者に連れられて、初めてその母と祖父に会いに行くのである。
 この終幕の導入部分に、伊野駅に降り立った二人が、伊野の町を通り抜けて、いまや四万十川と並ぶ清流として知られる仁淀川の川沿いの田舎道を歩いて、三好先生の実家がある「桑島村」に向かう描写がある。
「駅前広場の尽きた辺りは市電の発着所になっており、左へ曲ると、綾子が辞令を受取りに行った赤煉瓦建ての地方事務所の建物が見える。
三好先生はその建物に沿って南へ曲り、人家の詰んだ町筋をゆっくりと歩いた。まもなく人家は尽き、冬野菜の畑が続く辺りになると綾子は体が内からあたたまって来、着ている紺の背広の上衣を脱いで小脇に抱えた」
 1時間余り歩いた後、堤防に上がった綾子は、そこで広大な吾南平野と、大河となった仁淀川の豊かな流れを目のあたりにして歓声を上げるのだ。
 宮尾さんの自筆による「年譜」(『一絃の琴』文庫版所収)を見ると、「昭和十九年 一九四四年 十八歳 二月、池川町狩山国民学校に転任。三月、退職。同月、小学校教員前田薫と結婚」とある。
 だとすれば、宮尾さんは1944年の3月のある日、婚約者と2人で、伊野駅から「桑島村」ならぬ「前田先生」の実家の吾川郡弘岡上ノ村に向かったのだろう。

『春燈』の綾子は、結婚を決意することによって、目に見えないところまで広がる父岩伍の手のひらから離れ、別の世界に踏み出そうとする。ラストシーンに描かれているのは、こんな感動的な情景である。
「もうお家も近いのだな、と綾子も土橋を渡って芝におおわれた高い堤防の上に上ったとき、思わず『わあーっ』と歓声を挙げて立ち止った。堤防の左下には澄み切った水が盛上るようにゆたかに流れ、いずれも構えの立派な農家が立ち並んでおり、左手は見渡す限りの、手入れのゆき届いた河原田が拡がっている。
太陽はすでに半ば西の山の端に没し、辺りは真紅の春の夕焼に染められているなか、遠方から徐に黒い闇が下りてくる。堤の上を鍬を担いで帰るひと、馬をひいて帰るひと、くっきりと影絵のように浮び上り、馬のひづめの音が小さな谺を引いて聞えてくる。
 大きくうねりながら続いている芝草の堤、こんもり茂っている鎮守の森、河原田の向うの仁淀川の、夕日の余光にきらめいている小波、すべて夢にでもあらわれてくるような清らかな田園風景であった。
 綾子は、自分はほんとうは、以前からこういうところに住みたかったのだと思った。今夜家に帰れば、いよいよ正面切って父や兄との口論になることなど忘れ、結婚も三好先生をも、十分に理解しているとはいえないまま、景色に見とれながら夕闇の迫るなかを再び歩き出した」
 綾子は新しい道の始まりを明確に認識しないまま、「再び歩き出す」のである。

 宮尾さんは、2年半後に満洲から引き揚げてきたときも、伊野駅に降り立ち、赤れんが建ての地方事務所の建物に沿って南へ曲がった。
『春燈』で、町の風景を「人家の詰んだ町筋をゆっくりと歩いた。まもなく人家は尽き」と描写しているが、私の生家は、その「まもなく人家は尽き」というあたりの左側にあった。宮尾さんは 初めて婚約者の実家を訪ねた日も、満洲から引き揚げてきたときも、わが家の前の道を歩いていったのである。
『春燈』の中で、綾子が歓喜の声を上げた仁淀川と吾南平野の自然は、宮尾さんだけでなく、私もかつて数えきれないほど目にしてきた懐かしい景色であった。

 取材の際、私は「きっとわが家の前の道を」とつぶやいた。
「そうやったが……」
 宮尾さんの目もとが緩み、口調が急に土佐なまりに変わった。

 宮尾さんはデビュー以来、一貫して土佐の女の人生とその世界を書き続けてきた。
「土佐に四十年住み、暮しました。ほんとうに骨のずいまでの土佐人で、いまさらもう、どう変貌しようもありません」(『つむぎの糸』のあとがき)と告白した宮尾さんが描き出す女性たちは、偽りなく土佐の女の生の姿だったと思う。
 18歳で東京にきてしまった私などは、もはやそのしっぽをどこかに残しているだけの「元土佐人」にすぎない。それでも周囲にいる土佐の女どもから、宮尾作品に登場する女性たちの独特のにおいと、どこかで共通する体臭をかぎ取ることがしばしばある。そのたびに、なるほどと感心してしまう。
 もともとおっくうで、宮尾文学に限らず、文学作品全体について熱心な読者とは、とてもいえないが、土佐の女の深奥をもっと知りたいという土佐の男の哀れな性もあって、宮尾作品は手にすることが多かった。
 宮尾文学の真骨頂は、強い女、あるいは女の強い生き方、と多くの評者が指摘している。私も同感である。
 といっても、土佐の女を、強さ一色に塗り込むような単色ではない。情念、優美、哀切など、いくつもの色調を重ね合わせた彩りが宮尾作品の味わいであることはいうまでもない。
 強さの形も一様ではない。宮尾さんは土佐の女が持つ強さの形を、幾重にも重ね合わせていった。その厚みを賞味するのも宮尾文学の楽しみである。
 出世作の『櫂』では、豪気だが、気が短く、暴れ者の夫に長い間、黙って従っていた内向的な女が、夫に妾腹の子が生まれたことを知ると同時に、一転して強い女に変身を遂げる。辛苦、忍従を余儀なくされながら、ぎりぎりのところまで来ると、妥協を排して自分流を鮮明に打ち出し、頑強に意志を通す。芯の強さを発揮するのである。
『陽暉楼』でも、12歳で芸の世界に身を置くことになった桃若こと房子が、最後に自分の生き方を貫く姿が描かれている。
 子供のころから「玄人はだし」「器量良し」と褒めそやされた房子は、借金まみれだった魚屋の父親に売られて、高知一の料亭・陽暉楼の芸妓となった。女将からも「舞の筋がええ。跡目が取れそうな気もする」と期待され、土佐随一の芸妓に成長する。
 房子が住む世界には、俗念を超越して芸を極めるために禁欲に徹するというおきてがあった。
「幾百人の男に接しようと仮にも徒惚れなどしてはならないし、まして身上りまでしての色恋沙汰は芸の精進に水を注すばかりでなく、将来人の頭に立つときの大きな傷になる」
 女将から厳しく教えられてきた。
 ところが、客できた銀行頭取の息子に心を奪われる。男の子を身ごもった房子は、一人で出産を決意した。
 桃若にぞっこんのなじみ客の老人が、事情を含んだ上で生まれる子供の落籍を引き受けるという情を示すが、頭取の息子への思いを貫こうとする房子は、かたくなに拒否する。子供を産んだ房子は結核に蝕まれ、愛に殉じるように死んでいくのである。
 花柳界という閉ざされた世界で、幸せ薄い生涯を余儀なくされた女の受難の物語であることは間違いないが、そこにも別の形の女の強さが、隠し味のように仕込まれている。
「強い女」は、作中の人物ももちろんだが、それ以上に宮尾さん自身の生き方や姿勢に、より凝縮されて現れていた、と見た人は多かった。文体も取り上げる題材も描き出す世界も、自分流を貫き通した。土佐の女の代表格だったといっても過言ではない。
 実をいうと、宮尾さんの本を読むとき、つい身構えてしまう悪いくせがある。宮尾さんのせいではない。
 読書とはいえ、これから対峙するのだと自分に言い聞かせなければ、土佐の女にはとても太刀打ちできないのだ。一種の「怖いもの見たさ」でもある。
 土佐の男なら誰でも、日常生活のどこかで一度や二度、「強い土佐の女」の圧倒的な存在感をかみしめたことがあるはずだ。「怖いもの」とは押しつぶされそうなその圧迫感のことだ。
 とはいえ、実際に読み始めると、「怖いもの」よりも先に、宮尾さんの筆の鮮やかさに圧倒されてしまう。
 考え抜かれた筋立て、大地に根を張ったような重い文章、隅々まで血を通わせる精緻な心理表現、登場人物一人一人をあいまいにしない行き届いた人物描写、その中にさりげなく織り込まれた、私どもには、たまらなく懐かしい土佐の風物や、巧みに配置された土佐弁に魅了され、つい先へ先へと読み進んでいる自分に気づかされた。
 読み終わったとき、まず感じたのは、今度も「怖いもの見たさ」の気分ははぐらかされなかったという満足感であった。
 同時に、土佐の男のはしくれとして、毎度ながら同じ男どもへの複雑な気分に襲われた。土佐の男は、いまもなお宮尾作品に出てくるような強い女との日常的な闘いにエネルギーを費やさざるをえない宿命を負っているのか、とつい同情してしまうのだ。
 宮尾作品が全国の人々に読まれるようになって、他県の人々の土佐と土佐人を見る目も大分変わってきたと思う。
 よく知られているように、わが土佐に対する人々の先入観は、長いこと、「男天下の地」であった。坂本龍馬や吉田茂といった歴史上の偉人のイメージが影響していたのも事実だろう。
 飲んべえ天国で、男が仕事や家庭を顧みず、酒とばくちに夢中になっても許される土地柄と見られてきたという背景もあった。
「男天下」なら、共に生きる女たちは、「弱い女」が通り相場である。忍従、追従を強いられ、男たちの息遣いをうかがいながら暮らす姿を想像するに違いない。
 そうではなく、土佐に生まれた男の実感としては、「男天下」は一面的、表層的な見方では、と前々から感じることが多かった。
 私にもこんな体験がある。
 昔、親戚の男たちが集まって先祖の法事について話し合ったときのことだ。式次第やそれぞれの家の役割分担、金銭的な負担など、大まかな方針を決め、細部は後日、もう一度集まって決めることにした。
 数日後、男たちは二回目の打ち合わせ会を開いた。ところが、なんと前に決定を見たはずの大まかな方針は根こそぎ覆され、別の方針に変更されてしまった。お内儀さんたちが別途にこっそり集まって、勝手に細部まで決めてしまったというのが真相である。
 男の世界は上っつら、見てくれ、建て前。その裏で女どもが実権を握り、決断を下す。その代わり、きちんと責任や結果まで引っかぶる。
 当然ながら、女性は生き生き、はつらつ、威風堂々。男は見た目、威勢よく振る舞わしてもらっているだけで、内実は女どもの差配どおりに、彼女たちの手のひらの上で暮らすことになる。「女天下」「女天国」というよりも、女性主導型社会といったほうがいい。
 ひるがえって、女性主導社会における土佐の男どもの役割は何だったのか。宮尾作品でも「強い土佐の女」の陰影として、舞台回しのように、土佐の男が控えめに登場する。
 圧倒的なパワーを誇る土佐の女たちの前で、土佐の男どもに残された選択肢は、逃げ出すか、あきらめて従うか、手のひらで躍って生きていくか、上手にしりに敷かれて見せるのかだ。いずれにしても、相当、屈折した生き方を余儀なくされるのである。
 宮尾さんは、土佐の侠客・鬼頭良之助という実在の人物をモデルにした『鬼龍院花子の生涯』で、その父・鬼龍院政五郎を通して、屈折を余儀なくされる土佐の男の生涯を浮かび上がらせた。
 悲しいかな、宮尾さんの作品に出てくるどの人物よりも鬼政に、今も愛着を覚える。南国土佐を後にしてすでに54年、私の中の「土佐の男のしっぽ」は、いつまでも消えそうにない。

(記事初出は宮尾登美子著『陽暉楼』〈文春文庫版・1998年3月10日刊〉所収「解説」 2019年1月加筆・修正)

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